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大人になってからアダルトチルドレンを知って、わかったことや気付いたことと、これからのこと。

わたしがそこにいたら

子供が子供を産んで育てる(育ててるとは言えない、ただ生き抜いている状態)のドラマを見て、あまりにもリアリティがあって、苦しくなった。

子供が一人で子供を育てるには、たくさんの苦難がある。

社会の歪みがその状態を作る。

そういうのを作るのは大体大人の方で、無知で無力でバカな子供が利用される。

それによって起きた問題は、子供の側に全面的にいく。

容赦ない。

地獄かと思った。

本当にバカなのは大人の方で、無責任で、非情だ。

情けなくなる。怒りを感じる。

 

しかし、そんな大人ばかりじゃない。

ただ優しい人もいる。賢く知識を分けてくれる大人もいる。導いてくれる人もいる。

相談できる場所に連れて行ってくれる人もいる。

「それは問題だね」と子供が気づけない問題を気づかせてくれる人もいる。

そしてその問題のある現状を、解決に向けて準備してくれる人もいる。

そういう人に繋がっていくにも、知識が必要で、子供には難しい。

 

わたしがそこにいたら、なにができるだろう。

そういうことを、考えている。

まずは私自身が、私の足元を固める事が、何よりも一番で、しなければ何もできないしてはいけない、と思った。

 

頭の中身を付箋に落とす

頭の中が騒がしくなっているので、書くことで考えてる事や思ってる事を、一回出し切って、整理したいのですが、その書き出すこともできません。

大小様々なものがあって、追いつかないです。それと、正直に書くにはあまりにも自分の私生活の実情すぎて躊躇いがあります。たぶんそれが一番の理由で書き出せないでいます。

この場所でしようとしないで、部屋の中で紙に書いて、とにかく書いて、それらを順番に並べたり、捨てたり、増やしたりしようと思うようになりました。

その時は付箋がとても便利なので、いつも思いついたときにすぐ手に届く場所に置いています。

適当な紙に書くと、無くしてしまうのですが、付箋だと無くさないことに気づいたからです。書いたものは未使用のノートに貼り付けていきます。適当に開いたページに貼り付けるだけなので楽です。

そういえば、エクセルの勉強をしていた時も用意したノートではなくて、同じように付箋に書いてノートに貼っていました。

文章でまとめるより、ひとつひとつの事柄や思いつきなどを付箋に書いて貼っている方が、後で見直す時にとてもよく役立ちました。

貼りつけた付箋の上に、関連のある事を書いた付箋を少しずらして重ねて貼ると、「そのこと(かいてあること、疑問や解決など)」を、私の頭が理解するようになりました。

エクセルの勉強を終える頃、そのノートは最終的に、付箋だらけのページと、それを文章でまとめた、私なりのhow to本になりました。

今でも、わからなくなった時にそれを見ればすぐに思い出せるので、嬉しいです。

 

いつも、幼い頃から、自分が書いたノートは必ず誰かに見られる、という思い込みがあったので、(実際に見られてたこともある)きちんとしなくてはと思うあまり、自分にとっては役に立たない書き方をしたノートになってました。

今は、誰にも見られるわけないと思っているので、自分にとって役に立つノートが作れるようになりました。

しばらくはその方法で、勉強の事ではないけど、私生活の頭の中の整理をしようと思います。

先日、100円ショップで透明で大判の付箋(官製はがきより少し小さいサイズ)を見かけたので、あれは便利そうだなと思ったので、まだ売ってたら買ってみよう。

 

そして今、うわーっとなっていた頭の中の事を、僅かでも出せたので、頭の上の方が軽くなりました。「出す」ってやっぱりすごいんだなぁ!

今度、付箋だらけのノートの「こんなにバラバラに適当に貼ってます状態」をここに出せたらいいな。ああ、でもそこに書いてあることが本当に支離滅裂な感情や私生活の事だからつらい…そして直筆びっくりするぐらい汚い…やめておこう;

身体の不協和を受け入れるのは難しい

けどできる。

ここ数か月、短いスパンで身体の調子が悪い。それを事務的に報告する。

どうしようもないから、諦める。諦めるというのは具体的にただひたすら休むという事。休むということは、複雑な「すべきこと」を放棄し、横たわり温存するということ。悔しい気持ちになるけど、悔しい気持ちに焦点を合わせると、苦しくて悲鳴が体中を駆け巡って破壊してしまいそうになる。破壊するのは物ではなくて、せっかく積み上げた思考のパターンのこと。

こうなったらこうなる、だからこうする、そうすると時間が経てば回復するのを知っている、というパターン。

素直に休んでると言うと、「休んでばかりいないで取り組みなさいよ」と言われると、「わかってる」から「悔しい」という気持ちになる。

しかし私は、どうしたら這い出せるか、頑張って積み重ねてきて知っているのだ。

もう少しで動けるようになる。だから、そっとしておいて欲しいし、今やれ、と言われたくない。後で出来るようになる。今はできないだけで、回復したらできることなんだ。許してほしい。

 

そして思うが、私は「休んでばかりいないで取り組みなさいよ」という人が思うよりも日常生活はぎりぎりできている。今の私にはそれが守りたいラインなんだ。

精神医療の治療は複雑だ。私はきちんと治療を受けられていることに感謝している。

だけど時々、現状の把握が共有できなかった時に起きる、相手から言われたシンプルな言葉に苦しむ。

でもこれも深呼吸で消化する。私の人生は私が生きるしかないのだから。

私がどうしたらいいかわかっているのなら、多少傷つく言葉で苦しんでも、それを「すれ違った会話したなぁ」という認識に切り替える。

私は私のままで、私を回復しなければならない。

時々思う。

私の経済状態を支える相手がいれば、私はこんなに「まとも」を求められなくて済むんだということに。私より変な人はたくさんいる。私より仕事ができない人もたくさんいる。(健常者でも)

社会復帰を前提とした治療は、通院だけでは限界を感じている。

疲れた。

少し、休んで、朗らかな気持ちで日々を過ごせるように、自分を信じようと思う。

この世界にはたくさんの知恵がある。

体調が回復してきたら、そのたくさんの知恵を借りて、イメージを形にしてみようと思う。焦燥感が薄れてきたので、もう少し、もう少しだと、今は耳を塞いで、無音の中でぼーっとする。

 

 

 

 

ひらめいて、辿り着いたPDF

大丈夫だよ、って - backNumberlock

 

前回の記事の「不安」が解消に向かいました。

あの日、解決策はないのかと模索して妄想して考え込んだ後、「無理、できない」という結論に至りました。

翌日、「無理、できない」という条件で調べものすることにしました。

するとあっという間に、無理で出来ないならこういう方法があります、というPDFに辿り着きました。

 

不安だったのは、「しなければいけないことが思うように進まないかもしれない」という事。

だから、「思うように進むようにするにはどうしたらいいか」と試行錯誤していた。

そして、「そんな方法は自分では見つけられなかった、僅かに見つけたものも無理な条件であり、私自身の体調では無理だった」という結論が出た。

そして一晩寝て、その日も終わるような時間帯、ふとひらめいた。

今のこの状況を検索窓に打ち込んだ。

「○○○ができない 無理 方法」と打ち込んだ。

そうしたら大丈夫です、できますよ、というサイトに辿り着いた。

詳細が書かれている場所はサイト内ではなくPDFファイルだったけど、読んでみたら、本当だ、もしこれが可能なら大丈夫かもしれない、そう思った。

こちらにもいくつかの条件があるが、その条件はどうやらクリアしている。

良かった。

本当に肩の力が抜けて、安堵の溜息をついた。なんとかなる、本当になんとかなったぞ、(これからしていくんだけど)無理なら無理なりに進める道があった。

それが少し特殊な道だったりすると、公にWEB上では詳細が書かれてなかったりするけど、このことがインターネットで得られる情報だけではなくて、紙媒体や窓口対応で沢山の人が知ることができるようになればいいのにな、そんなことを思った。

しかし今回はインターネット上で知ることができて良かった。

「とりあえず諦めなくて大丈夫だ」という最後の切り抜け方を知ることができたので、もう少し他の事に目を向けて、他の事を頑張れそうです。

私の頑張る、って、余計な事をせず体調管理を怠らず、毎日を同じように過ごせるようにするってだけなんですけど…意外に難しいです。

でも今ならできる、なぜなら「その先の希望」が見えたからです。

うれしい。

大丈夫だよ、って

不安な時間を過ごしている。本当に「肌がひりひりする」ことってあるんだ、と気づく秋の夜。焦燥感は一定の状態である。高くもならないけど低くもなってくれない。

これは私が何とかしなければならない事なのだ、と事務的な思考に持っていく。

それが精いっぱいだ。

先送りにしたって解決しないことなんだけど、今の私には先送りにすることしかできない。今、できる、解決に向かう可能性のあることはどれだ?どの方法だ?今まで考えたことない可能性はないか?自分じゃなかったらどうする、どう動く?と、たくさん考えた。そしたらどれもこれも無理だった。

今の私には無理だった。それがわかった。だから先送りにすると決めた。

今の私ができない事を、明日の私はひらめくかもしれない。ひらめかないかもしれない。

今、私はこういう状況です、この状況のこういう事に不安を持っています、そして問題だと思っています、それを解決する方法はありますか、それは私だけでできることですか、誰かの協力が必要になってしまいますか、絶望はしてません、希望も特に持ってません、この問題を解決することを希望と呼ぶにはあまりにも些細な事柄すぎます。

私はこんなことを希望と呼びたくありません。当たり前の事だと思いたいです。

その当たり前の先にあるものが私にとっての希望です。

気が向けば溜息をついてます。できるだけ大きくため息をつきます。無意識に呼吸が浅くなっているから。溜息ついたら幸せが逃げてくよと言われたらすぐさま逃げます、そういうこと言う人から。

そして私は現実では誰にも相談せずに、自分で勝手に不安になっています。

もう少し考えてみたい、と思うからです。だけど、一瞬、凄い実績のあるその専門の誠実そうな人に、大丈夫だよって言ってもらえたらどれだけ楽になるだろう、と思ってしまいました。

その専門てなんだ、と自分に突っ込みながら、自分で言いました。声に出して独り言言いました。大丈夫だよ、なんとかなる、なんとかしかならない、絶対大丈夫。

 

 

 

学校に行くのは君の権利

学校には行かなくて良い。

行った方が得るものが多いから、通うことにメリットはたくさんある。

だけどもし、今、デメリットの方が多いと感じるなら、行かなくていい。

学生が学校に通って学ぶのは、学生が学ぶ権利を持っているから。

その権利を、自分の責任の元、いかように行使していい。

体調が悪いのに、無理していっても学ぶには無理がある。

学びたいのなら、まずは体調を整えることを優先した方がいい。

体調を整えること自体が難しい環境ならば、体調を整えることを得意とする人に相談すると言い。

今、勉強はどこにいてもできる時代になった。無料動画で面白い授業がたくさん観られる。

人間関係で悩みがあれば、その悩みを一度放棄する自由が君にはある。

対人関係においては、悩みの原因は自分一人のせいではない事が多いから、自分一人が悩んでも無駄になることがある。

自分だけではどうしようもできない悩み、それが人間関係だ。

君の悩みは君のものだけど、その先にいる対人にとっては悩みではない可能性がある。

ひとりでは解決できない問題だ。それを、一旦、放棄すると見えてくる景色がある。

ひとつ開けた対人関係の枠に、新しい対人を入れることができる。

君の悩みを解決する人ではないけれど、君が悩みに使っている時間を、別の事に目を向けさせてくれる存在だ。

実際の人間の場合もある。本の中の物語の場合もある。手に取ったフリーペーパーの趣味の集まりの場合でもある。近くのカフェから見える景色の場合もある。

ラジオの中の声かもしれないし、飲み干したコップの底にある時だってある。

君に語りかける人がいる。自分の人生を、自分で決めていいとしっかりと思えれば、のんびりしていたっていつか出会う。

君の話を聞いてくれる人はあちこちにいる。

君を守るのではなく、君の自立を見守り支えてくれる人がいる。

普通に優しい人はいるよ。対等だよ。君の悩みの種の人たちがするようなことは絶対にしないよ。だって実はそれが、特別でもなんでもない普通の優しさだから。

堂々と泣いていい。ひとりではもうどうしようもできない、そう思ったなら、一番に考えてほしいことがあるよ。

誰よりも自分を優先して、どんな人よりも自分に優しくして、それが難しかったら、自分の大切な人が困っていたらするみたいに、自分を他人にして考えてみてほしい。

目の前の自分の大切な人が困ったり悲しかったり、辛かったりするって、話してくれたら、君はどうするだろう。なんて声をかけるだろう。

私には、子供がいて、学校に行きたくないという時がある。(たまにだけど)

聞くことは「具合が悪いのか、そうではないのか」だけで、学校に欠席の連絡を入れる。学校には「具合が悪い」と伝えるけれど、実際は別に体調は悪くない事の方が多い。

「ただ今日は行きたくない日」なだけ。

そんな日は1時間くらい自宅学習して、あとはのんびり何かしてる。話したい事がある時は聞いてる。私も聞きたいことがあると聞く。

次の日は普通に学校に行く。何事もなかったかのようにまた通い出す。

私は、辛いことと向き合うだけが全てじゃないと思っているから、スルーして放棄したっていいと思ってるから、とにかく気楽に人生を楽しんでほしいから、子供が生きていることが一番大事だから、他の事はどうでもいいんだ。

ただ人生って思ったより長いから、必要な学習や努力からなるスキルが必要になってくる。それを、どんな事でも方法でもいいから、見つけて、手に入れてほしいなと思ってる。

そのままでいられる人なんていないから(成長しちゃう、身体も心も考え方も)

もがいた挙句の果てに見つかる居場所があるよと伝えたい。

きっとそこには、なんにも時別じゃない普通の優しさがあるよ。

少しだけ、話すことが悔しくても恥ずかしくても、茶化さないで聞いてくれる人がいて場所があるよ。探してみてね。

私の大事な人

私が大事にしたい人、私が大切に思っている人、たくさんいる。

そのほとんどが現実に会うことはない人ばかりだ。

綴られた文字を追いかける。数年前の時間を今に見る。もうその時のその人はいない。今のその人になっているから。

私もそうだ。

数年前の私の話は数年前の私の事で、今の私はもうそれを知っている今の私だ。

このたくさんあるアーカイブの世界で、この時間軸にいてラッキーだったと思ったことが何度もある。

私は救われていた。自分ではどうにもできない自分の中身を、他の人たちが綴ってくれた文章を読むことで、深夜、踏みとどまれた日がいくつかある。

踏みとどまったのは、何か具体的な行動ではなく、思考の諦めのようなもので、もうやめよう、もう考えないでいよう、何もできないしない自分でいい、という失意だ。

追いかけた文章に、諦めるな、頑張れ、気合いだ、なんて類の言葉はどこにもなかった。むしろ相対するような文章だ。

私はそれを読んで、考えることを諦めないと思えた。

自分を肯定されたという気分になったわけではないから、なぜ私がそういうふうに変化したのかは今もわからない。

私はこういうことに奇跡を感じる。

体感する。実感する。

そして忘れる。だからまた追いかける。いつまでもあると信じて、その頁に追いつくように走って遡る。辿り着けたら嬉しくなる。そしてその頁で、そこを訪れた過去の自分の後ろ姿を見つける。

私はその時、今の自分の後ろを振り返りたくなる。しないし、できないけど、きっと大丈夫(何が?)と思いながら、幾度も読んだ頁を閉じて、眠る。

私は毎日同じようなことをして時間を過ごしている。昨日とは違うんだなあと思いながら、同じことをしている。

こんな幸せがあるなんて、最近まで知らなかったんだよ。

 

 

 

my backnumber to lock the door on the inside ジュニア辞書で精いっぱい作った後ろと前の文脈です。タイトルはこんなニュアンスで表したかったです。