B2鉛筆で書く青
一年一年が早く感じるようになってから大分経つ。
人生の折り返し地点に来たと感じてから「私はもう大人になっていた」と気が付いた。
日本語の複雑さに嫌気がさしていたのは中学生の頃だった。
句読点なんて大嫌いだった。だけど必要だった。
高校生の頃は、日本語の文章ではなく言葉の解体に勤しんだ。
勝手に解釈を加えて、発見した気になって気分が良かった。
「ずっと昔に既に誰かが言っていたこと」を「自分が発見したんだ」と思い込んで綴った。それは今思い出せる限り、とても文章とは言えない、違うパズルのピースの寄せ集めのようなものだった。だけど大切だった。
そのピースの寄せ集めの完成が、何かの形を成していなかったとしても、大切だった。
私のそばにいつもいた。言葉の重要性はいつもついて来た。
人間を思うように、私は言葉を思っていたのかもしれない。
仕舞ってある大切な言葉も、文章も、しつこいくらい表に出す言葉も文章も、いつも頭の中にある。
それは大人になった今でも変わらない。
だから感情を優先するあまり、言葉の選択をないがしろにする人が嫌いだ。
言葉の先には人がある。言葉の前には気持ちがある。言葉を選ぶ時には自分がいる。
日本語は複雑で、結局何が言いたいのかわからないように完成させることだって出来てしまう。そんな複雑さをいとしいと思うようになったのはブログを始めてからだ。
私の中にある複雑を、言葉を繋げて文章にして文字を打ちこんだのかと思うくらい、何を言ったのかわからないように完成された文章をいくつも読んだ。
でもそれはあくまでも「似ている」だけであって、私の中の複雑とは違う。
違うものだと自分に言い聞かせて、他人の作る文章を楽しんだ。
今年も読みます。そんな一年にします。
よろしくお願いします。 2018/1/18 ちえ
追記 今年はおみくじひきませんでした。
頭の中の色付きレイヤー
4色の付箋だ。
大きめのサイズの付箋に書いたものから適当に貼りつける。
新しいノートに貼りつけていく。
一度貼りつけた付箋を並べ替えていく。
手順を確認する、タイムリミットのあるものに日付を書き足しながら、また並べ替える。
決定したスケジュールを隣のページのノートに清書する。
出来る限り箇条書きに直す。余白を探す。
トラブルシューティングをする。あまり上手にできない。だから余白を確保しておく。
修正が必要になった時は、丸一日あれば大丈夫だと言い聞かせる。
きっと大丈夫だと言い聞かせる。
だってできる事しかしていない。
出来ない事はしていない。ただ私は最近頑張っている。
頑張ってしまうと、不安になる。細部まで気になりだす。それをやめることにした。
誰もそれを要求していない。
足りないものがあればその時に補えばいいだけだ。どうしてこんなに簡単なことを受け入れられなかったんだろう。
悪い癖だと思った。
wish
私はもう随分大人で、振り返ればそれなりの思い出もある。
日々の生活の中で、過去の出来事を思い出したりする。ふと目にした景色や物に、もう会わない人を思い出したりする。
その記憶の中のその人たちは、その時のままの風貌をしているので、それが過去の事だとしっかりわかる。
その人たちも私と同じように歳を重ねている。大人になっているだろう。
20歳の時、散り散りになった中学校時代のクラスメイトに連絡を取り、小さなクラス会を開いた。40人クラスだったけど、30人に連絡がついて、20人が参加してくれた。
私は20歳になってもよく遊んでいた同級生2人と協力して、幹事のようなことをした。
後でわかったことだけど、私はどうやら中学校クラスの幹事として登録して卒業していたらしい。そんなことを責任感を持って覚えているほど賢くなかった。
結果的に見れば自費で連絡を取り20人集められたのは良い仕事をしたと思う。
当日は、15歳で別れたクラスメイトが20歳になって現れて、みんなで盛大に笑ったのを覚えている。
東京から駆けつけてくれた男子が3人いて、彼らは中学生の時に成績優秀でコミュ強でユーモアに溢れた人物たちだった。
うち一人の趣味がスキューバダイビングだと聞いて、「太郎(仮)が!」「スキューバ!」と大爆笑だった。
ほかの人たちは私を含め、なんやかんやで地元にいるので、会おうと思えばいつでも会える距離ではあるんだけど、こういう機会でもないと集まれないのが大人なんだろうと思った。スケジュール調整が難しい。
私は知人のお店を貸切にしてもらった為、手伝いの方に回ってしまって、なかなかみんなとは話せなかった。
それでも、みんなが元気でいた(元気じゃなかったかもしれない人も元気に笑うことができた)空間を過ごせたことが嬉しかった。
集まった人の中に、私がずっと好きだったAの友人がいて、(なんなら私が別の人と結婚する直前まで好きだった)「ちえが結婚したって聞いて、Aは絶対ありえないって言ってたよ」と言われた。「へえーなんで」と聞いたら、「ちえは一生俺の事を好きでいると思ってたから信じられない」と言っていたそうだ。
その友人に、「Aは相変わらず頭は悪いの?」と聞いたら「あいつは変わらないよ、ずっと頭悪いよ、今も頭悪いよ」と言った。
それってすごいことだなーと感心してしまった。
今日はそんなことを思い出すきっかけがありました。
そのクラス会からも早20年弱、Aが今日も変わらず頭悪いことを願ってしまう。
そして、幸せでいてほしいと思う。
ターゲット
いろんなひとがいる
そういう当たり前のことを、改めて感じざる得ない時がある。
自分の常識は自分の常識であって、誰にでも適用されるものではない。わかってるつもりでも、やっぱり違うんだなと思う。
けれども、場合によっては確実な摺合せが必要になるので、共通の常識を作らないといけない。共通の常識、認識と言うべきなのかわからないけど、とにかくそれをルールとして定めておかなければ、命の危険に関わる事だってある。
(例えばアレルギー問題もそういうことだと思う)
何度もブログページを開いて打ち込んでは消しを繰り返して、ためらった。
書きたいことはたくさんある。奇妙な冒険のページを開いてしまったのかと思うほど「目の前で起きていることの意味が理解できない」ことが連続であった。
使っている言語は同じなのだが、まったく噛み合わず、私がやめてほしいとお願いしたことに「承知しました」と言ったその口で、やめてほしいことをするし言うのだ。
具体的に言うと、「私はあなたに報告する義務があるから報告するが、他言してほしくない(業務的にする必要性もなかったので)のでお願いします」ということを
次の日には他言してほしくなかった人たちに他言しまくっていたのだ。
私がその場にいないことを理由に。
何かにつけて、そのような類のことが頻繁に起きるので、私はその人を信用をしていない。しかしそこが報告の窓口なので、ストレスがやばいです。
私は、その人が私をターゲットにして玩具にしてるのかと思い始めていたのですが、他の人からの情報によると、どうやら頭が悪すぎるということらしいです。(他でもやらかしてるという情報)
でもそんなのって、そんなのって、あんまりだなと思いました。
だったらその人が報告窓口の係りをやめてくれないと、杜王町から出られないじゃない…
下り道を駆け上がる
随分と水を吸い込んだコンクリートは
今夜の気温の反射で眩しい
自分の息遣いがうるさいくらい響いていて
すれ違う人がスローモーション、そして滲んで見えた
自分の動悸が思考を邪魔して傘も風に奪われそうで
空回りそうになった自分の足に気づいて、一度止まって呼吸した
吸って、長く吐いて、吸って、長く吐いて
確実に、また走った
もう少しで私は発狂してしまう
私が私には届かないところへ行ってしまう
そんなことになっては会えなくなってしまう
冷静さを必要として、代わりに飲み込んだ感情は、ずっと戻ってこないかもしれない
そんなことはどうでもいい
他人のように自分を振る舞った夜に、信じたこと
まだ生きて行くということ
わたしがそこにいたら
子供が子供を産んで育てる(育ててるとは言えない、ただ生き抜いている状態)のドラマを見て、あまりにもリアリティがあって、苦しくなった。
子供が一人で子供を育てるには、たくさんの苦難がある。
社会の歪みがその状態を作る。
そういうのを作るのは大体大人の方で、無知で無力でバカな子供が利用される。
それによって起きた問題は、子供の側に全面的にいく。
容赦ない。
地獄かと思った。
本当にバカなのは大人の方で、無責任で、非情だ。
情けなくなる。怒りを感じる。
しかし、そんな大人ばかりじゃない。
ただ優しい人もいる。賢く知識を分けてくれる大人もいる。導いてくれる人もいる。
相談できる場所に連れて行ってくれる人もいる。
「それは問題だね」と子供が気づけない問題を気づかせてくれる人もいる。
そしてその問題のある現状を、解決に向けて準備してくれる人もいる。
そういう人に繋がっていくにも、知識が必要で、子供には難しい。
わたしがそこにいたら、なにができるだろう。
そういうことを、考えている。
まずは私自身が、私の足元を固める事が、何よりも一番で、しなければ何もできないしてはいけない、と思った。
頭の中身を付箋に落とす
頭の中が騒がしくなっているので、書くことで考えてる事や思ってる事を、一回出し切って、整理したいのですが、その書き出すこともできません。
大小様々なものがあって、追いつかないです。それと、正直に書くにはあまりにも自分の私生活の実情すぎて躊躇いがあります。たぶんそれが一番の理由で書き出せないでいます。
この場所でしようとしないで、部屋の中で紙に書いて、とにかく書いて、それらを順番に並べたり、捨てたり、増やしたりしようと思うようになりました。
その時は付箋がとても便利なので、いつも思いついたときにすぐ手に届く場所に置いています。
適当な紙に書くと、無くしてしまうのですが、付箋だと無くさないことに気づいたからです。書いたものは未使用のノートに貼り付けていきます。適当に開いたページに貼り付けるだけなので楽です。
そういえば、エクセルの勉強をしていた時も用意したノートではなくて、同じように付箋に書いてノートに貼っていました。
文章でまとめるより、ひとつひとつの事柄や思いつきなどを付箋に書いて貼っている方が、後で見直す時にとてもよく役立ちました。
貼りつけた付箋の上に、関連のある事を書いた付箋を少しずらして重ねて貼ると、「そのこと(かいてあること、疑問や解決など)」を、私の頭が理解するようになりました。
エクセルの勉強を終える頃、そのノートは最終的に、付箋だらけのページと、それを文章でまとめた、私なりのhow to本になりました。
今でも、わからなくなった時にそれを見ればすぐに思い出せるので、嬉しいです。
いつも、幼い頃から、自分が書いたノートは必ず誰かに見られる、という思い込みがあったので、(実際に見られてたこともある)きちんとしなくてはと思うあまり、自分にとっては役に立たない書き方をしたノートになってました。
今は、誰にも見られるわけないと思っているので、自分にとって役に立つノートが作れるようになりました。
しばらくはその方法で、勉強の事ではないけど、私生活の頭の中の整理をしようと思います。
先日、100円ショップで透明で大判の付箋(官製はがきより少し小さいサイズ)を見かけたので、あれは便利そうだなと思ったので、まだ売ってたら買ってみよう。
そして今、うわーっとなっていた頭の中の事を、僅かでも出せたので、頭の上の方が軽くなりました。「出す」ってやっぱりすごいんだなぁ!
今度、付箋だらけのノートの「こんなにバラバラに適当に貼ってます状態」をここに出せたらいいな。ああ、でもそこに書いてあることが本当に支離滅裂な感情や私生活の事だからつらい…そして直筆びっくりするぐらい汚い…やめておこう;