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大人になってからアダルトチルドレンを知って、わかったことや気付いたことと、これからのこと。

家の中にくちうるさいおばさんがいます

私にはわかることでも、私以外の人にはわからない、わかる場合がたまにある、ということを定期的に自分に言い聞かせないと、大失敗をする。(反対も然り)

大失敗をして傷ついたり恥をかいたりするのが自分ならマシなのだけど、相手を傷つけてしまったり、疲労困憊させてしまうのは本当によくない。

こどもと対峙する時、私は急かしてしまう。早く決断して行動した方がいい事を知っているから。でもそれは、私自身が失敗を繰り返してきて身に染みてわかったことだ。

失敗をしないとわからないことってあって、それって、実感というやつだと思う。

逆に言うと、失敗をしたらわかるってことで…

失敗をさせたくないから、こんなに急かしてしまったのだろうか?と考えてみたんだけど、しっくりこなくて、一週間くらい時間をかけてよく考えてみた。

「失敗して恥をかかせたくない」「失敗をして傷つかないでほしい」「傷ついたら立ち直るのに時間がかかってしまうかもしれない」そんなことだろうか?同じような場所をぐるぐると歩き回るように考えた。違う角度で見ればもっとしっくりくるかもしれない。

そして、私の中にある、こども(の出すべき決断や行動)を急かしてしまう理由がわかった。衝撃的なものだった。

「こどもが早く(解決、完了、行動)してくれれば」

「私がすっきりする」

私は自分がすっきりしたいがために子供を急かしていました。

とても反省している。私は子供をコントロールしようとしていた。求められた時の助言ではなく、率先して先回りしてああでもないこうでもないと余計なお世話を焼いていた。

失敗をして恥ずかしい思いをして、後悔をして変えようって思う事はあるし、必要だ。

失敗をして傷ついて、時間が経てば立ち直れる力が、子供には無いと思うのは、子供を信じてない。立ち直るためにはいくらでも協力するという私の意思を、日常の中で見せて行けば良いだけなのだ。

本当に自己嫌悪です。

気を付けて過ごしても、きっとまたぽろっと出てしまうと思う。

ぽろっと出そうになった瞬間に、飲み込めるように、練習します。

まずは、珍しく、美味しい何かが食べたいです。

何かが分からないんですが、何かこう…自分を慰めたいです。

 

あ、菓子パン食べたいです。ひくくらい甘いジャムぶち込んだむしろこれジャムじゃんみたいな菓子パン食べたい。

明日食べようと思います。

口煩いおばさんは、ただのジャムおばさんになるぞ。

 

すみっこでいきたい

先日、好きな音楽についての話を書いた。

そしてすぐに非公開にしてしまった。今までもいくつかそういう風にしまってしまった音楽がある。

言いたいのに、知られたくない。矛盾した気持ちをずっと持ってる。

減ってしまうと思ってしまう、、そういう気持ちに近いのかな。

私の一部を渡してしまうような気になる。

いつか、好きな音楽を通して話したり、話さなくても、この曲いいよねえなんて言って、誰かと同じ曲を聴いてみたい。

ような、みたくないような、、。やっぱりまだまだ私はそういう性分なんだな、仕方ない。

 

今日良いことがありました。

前回の記事で書いてたことなんですが、隙間時間を見つけては勝手に悔しいを思い出してウワーーーとなっていたのですが、その私が抱えていて解決しようとしていた問題を、肯定的にとらえてくれて、「大丈夫」「間違ってない、良く頑張った」と言ってくれた人がいました。

そしてその励ましてくれた人の言うとおり、私の問題は現実的に解決の方向に向かいました。私のやり方や説明でクリアできたのです。

とても清々しい気持ちになりました。ぐにゃぐにゃと蜷局を巻いて居座っていた「考えても仕方のない事」がしゅ~っと音を立てて溶けて消えていったようでした。

これから、まだ、今年来年は忙しいはずですが、私は自信をつけました。

着地地点を明確に決めれば、そこにたどり着くまでの方法は私のやり方でいい、大丈夫だ。自分でそう決めてから本当にそうなってきました。

こんなこと、もっと早く、笑えないくらいもっと早くに気づけていたら、私の人生の運びは違ったのだろうか。そんなこと考えたって戻らない。戻りたくて言ってるんじゃなくて、「気づいてたら違っただろうもう一つの人生」を想像してみたいだけ。

想像したら、やっぱり、今のこの状態になってないと、得られなかったものの存在が大きすぎて、後悔はほぼない。

ほぼない。

 

多少はある。

bmpockn

白々しい善意のレースカーテン

透けて見える悪意の八つ当たり

どちらも地続きで同じ世界にある

整理整頓された美しさと

乱雑な美しさと

どれも変わらず同列に大切に思う

矛盾しない

矛盾しかない

丸か四角か多角形か万華鏡か

私のいる場所はずっと変わらないけど

時間はこの瞬間にも移動する

カレンダーなんかよりもっとずっと早く移動する

その物語の中で

いくつかの音楽が流れ続けていて

そんな言葉は一度も使わずに言ったんだった

「大丈夫だよ」

大丈夫だよなんて一度も歌ってないその歌は

私に何度も言った

「大丈夫じゃないけど大丈夫だよ」

 

本当に大丈夫だと思った

大丈夫じゃなかった10年前のあの日から

随分時間が経ったけど

私は大丈夫になったよ

これからも繰り返すよ、大丈夫じゃなくなっても、もう大丈夫だと知った

大丈夫になったこれからもずっと歌ってほしい

ありがとう ロストマン

 

自分の言いたいことだけ言うなら、それはお互い様の条件にしてほしい

私は今、不思議な気持ちでいる。

今、ひとつの感情に覆われていない。

 

今までは、ひとつの感情に覆われてる事が常だった。

「それ」は一日の始まり、起きた時にほぼ決まっていて、「気分がいい」「気分が良くも悪くもない」「気分が悪い」「ダメ・無」の4つのどれかだった。

そして私が望んでいて、調子が良いと思える始まりは、「気分が良くも悪くもない」の状態だった。大体気分が良くも悪くもない状態で一日を終え眠ることができる、その一日が幸せだった。

その繰り返しで歳を重ねて終わる日が迎えられたら…どんなに幸せだろうと思っている。

そんなことを考えて、ここでわざわざしたためてるということは、今はその状態ではないということです。

望むことは変わらないけど、状態が「ひとつの感情に覆われていない」でいます。

ここ数か月、私は忙しくしていました。

私が忙しく感じているだけです。私がしていることなど何かの片手間にひょいひょいとできる人がいることは知っています。

それを勝手に想像して勝手に落ち込んでいたのは随分前で、今は、用事や目標を達成した時には、自分のことを褒めて褒めて何なら声に出して、すごい、よくやった、と自分を認知するようになっています。これはとても効果がありました。

私は誰かに評価されるのではなく、比べられるのではなく、自分が自分を認めていくということが精神的にも体調的にも必要だったみたいです。逆を言えば、それは過去の自分にはとても難しかったため、時間がかかったのだと思います。

 

そして今日、今、私は感情の変化を経験しています。

朝起きてから、やらなければばらないことがあり、問い合わせたり(問い合わせ先が複数あり、大変だった)人と会ったり、説明したり、それが終わると行かなければならない事があったりと、盛りだくさんでした。

最後に行く場所の用事を終えて出る頃、私は悲しさと悔しさと怒りで身体がどうにかなりそうになりました。具体的に言うと、筋肉が過度に強張ったり、頭痛がしたり吐き気がしたりです。家に着くころにはお腹も痛くなりました。しかし飛び上がった心拍数は平常になっていました。

朝起きた時、私の状態は「無」でした。

帰宅してからの私は、負の感情の全てが悔しいに結合されていました。

そして時間が経つにつれて、フラットになり、悔しいは大人しくなり、反撃を考えるような時の感情に近いものになっていました。

反撃と言うのは暴力をふるったり誰かを傷つけたりするようなことではありません。

私が言われて(されて)嫌だったことを、”言った人”が言った、と言うことに対して、

その”言った人”が悔しがるような”私になろう”と思った、ということです。

そう考え始めた時、気持ちがふと軽くなって、心地よい状態になったのです。

私は決して”その人”の為に生きてるわけではありません。

私は私の為に生きているので(いくので)、自分にとって良いと思う事しかしません。

だから、簡単に言うと、頭を抑え込むような正論をぶつけてきた相手に、私の事を理解してもらう必要はないし、私の生活に責任を持てない相手のいう事は、ただのひとつの提案に過ぎず、私が受け入れる必要がない。

言われたことがあまりにも悔しいから、私は感情が漏れ出し、怯えたり震えてしまった。泣きそうになったり吐きそうになったり怒鳴りそうになったけど、どれもしなかった。私は、この人みたいになりたくない、そう思った。

事が起きている真っ最中に気づくのは初めての経験だったので(後で考えたら気づくのは結構ある)私は言われたことに答えを出すわけでもなくその場を離れたのだけど、その人との関係を終わりにするには、私が変わるしかないのだと強く思った。

そしてその変わる、というのは、今後の自分に良さそうなので、そうしていこうと思いながら、力になってくれそうな人の事を考えていました。

ひとりふたり浮かんで消えました。きっと、力にはなってくれるけど。

まずは一人でやってみようと思います。

それで駄目だったら、相談してみよう。

それでも駄目だったら、その時に、今度は違う場所に立って考えてみようと思う。

パニック起こして号泣しなかった今日の自分を振り返って、実感した。

私は自分が思うよりも、冷静さを取り戻してるのかもしれない。

これは嬉しいことだ。

明日の自分に過度な期待を持たないと言い聞かてから、寝ます。

 

your side / a lot of the myself

耳触りはいいが、これは皮肉だ。今の私にはちょうど良い程度だ。

「私は自分を信じている」

私が自分に向ける皮肉で、私は自分を信じていない。半分嘘で、半分本当だ。

それは子供にも言っていて、私の言う事は、たとえ説教の間であっても、全部信じない方がいいと伝えている。

私が言っていることに疑問を感じたなら、その疑問を解決する方に時間を使った方がいいし、怒りを感じたなら無視をした方がいい。矛盾を感じたなら、矛盾の正体を明確にして、覚えておいた方がいい。

私は自分を無力ではないと奮い立たせている。少なくとも子供の前では無力ではあれない。偉そうにしてるくらいが丁度よいと思っている。私が自信がある風にしていないと、子供が不安を感じると思っているから。

不安を感じた時、言葉にしてほしいと伝えている。

だから毎日、バカみたいに同じことを聞く。「楽しかった?」「辛かった?」「ヤバかった?」「うけた?」

「普通だった」と答えられた時には、「普通ってなんだよ」「どの普通だよ」「グラデーション知らないのかよ」と10回くらいはしつこく独り言のように言っている。

すると「うるさいね!」と子供が笑うのでやめられないのだ。

この時間を過ごせるのももうあと僅かで、そう実感するたびに、感謝の気持ちが湧く。

私をここまで連れてきてくれてありがとう、と思う。

 

これってどういう意味?と聞かれることも面白かった。勉強でわからない時に聞いてくれることも嬉しかった。古文で覚えられないところがあると言うので、背景を知れば定着するかもしれないと思い、半日かけて調べた情報を、B4紙にまとめてトイレの壁に貼った。私は物凄い達成感を味わった。学生の頃の自分にこの情熱があれば古文も楽しかったんだろうなと遠い目にもなった。

二日後、トイレに貼りつけた私の傑作古文図解は剥がされて、目の前でゴミ箱に捨てられた。「なぜ!?」と聞いた私に子供は言った。「もう覚えたから。ありがとう」

私は泣いた。泣いたというか号泣した。私の傑作作品がゴミ箱で春の心地こそすれだった。泣き叫ぶ私を見て息が詰まるくらい爆笑してる子供を見て嬉しかった。

そんな毎日が楽しかった。

 

私が自分を信じるのは、私の事を信じてくれている存在があるからで、自分一人では無理だったと痛感している。

その役目も終えて、私が一人になっても何も心配はなくて、私はこれからも自分を半分信じて半分嘘だと思って生きて行くだけだと思う。

夜になるとやりたいことが際限なく溢れてきて、眠れなくなってしまう日が結構ある。

でも一日でやるべく事の優先順位も時間も決まっているので、今まではやらなかった。

それをこれからトライしていこうと思う。

誰に何を言われるでもなく、他者の評価のない場所と環境で、ひっそりと針に糸を通す、縫う、アイロンをかける。自己満足。自己満足の時間を過ごせたらいいなと思っている。

楽しみだなあ。

 

 

 

B2鉛筆で書く青

一年一年が早く感じるようになってから大分経つ。

人生の折り返し地点に来たと感じてから「私はもう大人になっていた」と気が付いた。

日本語の複雑さに嫌気がさしていたのは中学生の頃だった。

句読点なんて大嫌いだった。だけど必要だった。

高校生の頃は、日本語の文章ではなく言葉の解体に勤しんだ。

勝手に解釈を加えて、発見した気になって気分が良かった。

「ずっと昔に既に誰かが言っていたこと」を「自分が発見したんだ」と思い込んで綴った。それは今思い出せる限り、とても文章とは言えない、違うパズルのピースの寄せ集めのようなものだった。だけど大切だった。

そのピースの寄せ集めの完成が、何かの形を成していなかったとしても、大切だった。

私のそばにいつもいた。言葉の重要性はいつもついて来た。

人間を思うように、私は言葉を思っていたのかもしれない。

仕舞ってある大切な言葉も、文章も、しつこいくらい表に出す言葉も文章も、いつも頭の中にある。

それは大人になった今でも変わらない。

だから感情を優先するあまり、言葉の選択をないがしろにする人が嫌いだ。

言葉の先には人がある。言葉の前には気持ちがある。言葉を選ぶ時には自分がいる。

 

日本語は複雑で、結局何が言いたいのかわからないように完成させることだって出来てしまう。そんな複雑さをいとしいと思うようになったのはブログを始めてからだ。

私の中にある複雑を、言葉を繋げて文章にして文字を打ちこんだのかと思うくらい、何を言ったのかわからないように完成された文章をいくつも読んだ。

でもそれはあくまでも「似ている」だけであって、私の中の複雑とは違う。

違うものだと自分に言い聞かせて、他人の作る文章を楽しんだ。

 

今年も読みます。そんな一年にします。

よろしくお願いします。                  2018/1/18 ちえ

 

追記 今年はおみくじひきませんでした。

 

my backnumber to lock the door on the inside ジュニア辞書で精いっぱい作った後ろと前の文脈です。タイトルはこんなニュアンスで表したかったです。