▽entropy△
しんどい。しんどいんだと思う。
ここ1~2年は自分のメンタルの行方みたいの理解できてる気でいた。
昨日から、右側の頬の痙攣が起きる。すぐ治まるけど、ちょっと焦る。
離婚寸前の婚姻当時に顔左側の色んなところが痙攣して、手で押さえてないと気になって何もできなくなった事があったから、それを思うと、他の余計な記憶まで蘇る。
私を責める私のことを、今の私は許してはいないが、もう責めてはいない。
その時々の「限界」があるのだ。
今の私にとって容易いことも、当時の私には無理難題だった。
だから、きっと今の私もそう。
今の私は限界を感じるけど、来週の私には容易いことになって可能性がある。
いや…来月かもしれないし、来年かもしれないけど、とにかく今から先の自分に僅かな期待をする。
今日は痙攣を手で押さえることはなかった。
糸と針を持って、布と布とを繋いで何にもならない物を作っていた。
(出来栄えはともかく、愛着の湧く袋が完成しました)
明日は絵を描く。
ずっと色んなものを見ていた。私の中にあるものは私が知ってる物しかないから、知らない物を知ろうとして、望遠鏡をまた担いだ。
担がないけれども…(持ってないし)
でもあながち、そんな感じで、見ようとして見ていた。
結局は見たいものしか見れないけど、描くために見ていた。
タールみたいにねっとりとした自分の中身も見えてしまった。
存在それ自体は知っていたけど、タイミングなんてお構いなしでちらつくものなんだなと再確認する。
面白いものだな、なんて思わなかった。昔の私に教えてあげたい。
大丈夫だよって。
グラデーションとパレット
色彩について、私は考えることが多い。
それは、私が、色づいている全てのものに興味があるからだ。
人工的にデザインされた物、自然界にその姿で存在する物、再現された物、記憶の中にあったような気がするもの、空、反射、透明とされる場所、タイル、落書き、知らないもの、すべてに。どうしてだろう?と理由を探していた頃もあったけど、今はそれはしない。見つからなかった。
ひとつ、気づいたのは、自分にとって心地よい色の組み合わせが在るということ。
それを眺めていると穏やかな気分になったり、思う存分悲しんだりできるということ。
私にとって、色とはそういう効果を示す存在。
意図して色の効果を使い、自分の欲しい世界を作ろうとする時がある。
部屋にある家具や皿、コップ、裁縫に使う生地、糸、手帳に走らせるペンの先から紡ぐ文字に、私は色を付ける。しっくりくるように、色を使う。
時々絵を描く。
15年間ほどかけて集めた絵の具を、クッキーの空き缶にしまっている。
絵の具は、用事のために出かけた先の文房具屋で1本、2本を選んで買う。
額にして300円~400円くらいになる。
それらをコツコツと空き缶に足していく。とても大切なものになってる。
私にとってはジュエリーケースのようなものなのだ。
絵の具の色は、いつまでも同じ色が売ってるわけではなく、自分の思ってなかったタイミングで販売終了カラーになってしまうことがある。
もう同じ絵具を作れる原料がなくなってしまうのだ。
そのことを知った時は、気に入った色は2本買うようになった。
絵の具は、私にとって貴重で、他人にとっては貴重じゃない人がザラにいることなんてわかっている。
だけどやっぱり、絵の具を乱暴に雑に無駄に使う人を見かけると、悲しくなる。
(自分のを使われたわけじゃないのに)
絵の具がどうやって作られているか、知っているのかな?とか考えてしまう。
水を使って、もう少し丁寧に使えばいいのに、、と思ってしまう絵を見た。
筆も、きちんと洗っているのかな、とか、パレットに残った絵の具、ラップ巻いて空気抜いて乾かないようにしたら、まだもう少し、使えるのに、とか考えてしまう。
やっぱり、ひとはひとそれぞれあるだよねーと頭ではわかってても、自分が大切にしてるものを乱雑に扱う人を見るのは辛いものがあるな。
そういうの、見ないようにしよう。
私は、私の空き缶の中の色を使って、好きな線を引こう。
今年の夏までには、トイレに飾る絵を描きたい。あ、絵と言っても、色を組み合わせた何らかの形になるだけなんだけども。
青を描きたいです。
楽しみ。
/ May I help you / I stay by your side / I believe you with me /
自分事じゃないことで少し落ち込んでいて、たったひとつの事実を知ったことで色々考えていた。
憔悴はしていない。
思ったより衝撃を受けて、ショックだった、それだけ。
私は出来ない事の方が多いし、体力スタミナがない。最近は筋トレをしている。
それは病気による無気力な日常がもたらす体力不足だけど、それに加え歳を重ねている。健康な人だって筋力は落ちていくし、体力も弱くなっていく。
ペットボトルを200回持ち上げる日々を過ごしているけど、なぜかわからないが全く筋肉になってくれない。持ち上げ方(負担のかけ方)が間違っているのかもしれない。
そんなこんなな、適当な生活を送りつつ、幸せを感じている。
ここ数日取り組んでいた「しなければならないこと」も無事終わった。
とても疲れたけど、「達成できた」という解放感の方が強くて、燃え尽症候群にならずに済んでいる。
いたって平穏な日々だ。
こんなことをこんな風にしかできない、こんな生活でも、安息を感じて時々怖くなる。
こんなに幸せでよいのだろうかという馬鹿な呪いが身体の真ん中をすり抜けていく。
良いに決まっているのである。
だから、私には無関係なことを聞いて知ってショックを受けてしまっても、私を保つことが大前提で、考えて行こうと思う。
いつか、こんな私にでも手伝えることがあるのかもしれないから、今日もペットボトルを持ち上げた。
手伝ってほしい、と言われたとしての話だけど。
やっぱり自分にとって、勉強は大切だなと思った一日でした。
困ったときに、分解して特定して解決に向かう計画を立てる能力は、無いよりあった方がいいから。
自分のできることをしよう。
5W1H そして DO / 望みはシンプルなのでお願いします、、ということ
不安や不満が溜まっている。自覚があるのが救いだ。
しかも原因がわかっている!これは解決への近道だ。
「胃が痛くなる」というのを経験して、「本当に痛くなるんだ」と感動したりする。
私は今まで、ストレスがたまると「頭が痛い」症状が頻繁に起きていた。だけど今回は胃が痛い。ストレスの種類が違うからだろうか、それとも歳を取って痛む場所が変わったのだろうか。(そういえば結婚していた頃に顔面痙攣になったことがある。あれもストレスだったんだろうな)わからないけど、胃が痛いのはかなり辛い。
こんな症状が慢性的になっていたら、駄目になるのがよくわかった。これは良くない。
早めに解決しなくてはいけない。(胃薬は毎日の薬と一緒に必ず飲んでいるから、胃薬対処では意味がない。ストレス元を解消しなくては)
そう考えると、イライラしている時間はない。解決に向かって粛々と行動しよう。
行動した私が他人にどう見えても関係がない。面倒くさい思われるかもしれないけど、それはこっちのセリフである。私は指示を仰いでその通り順を追ってすることはした。
今度は相手の番である。難しいことはしていない。こんなことが難しい、面倒くさいと言うのなら、その席を私に譲ってほしい。(いらないけど)
ハローワークに通った頃に感じた気持ちに似ているな…と思った。
このテーブルを挟んで、あなたと私、いったい何が違うというのだろう?なぜこんなに見下さなければならないのか、と感じた事。
こんなことで溜息ついたり、対応策が見つからない、知らないと言うのなら、なぜあなたはそこに座っているのか教えてくれ、と感じた事。
今回はそんなことは言わないけど、どう思われても構わないから、事実のみ伝えて(もう何十回も伝えている)改めて中身を確認して(すでに決まっていること)それを実行してもらえれば、私のストレスは解消する。
相手の多忙さはもう考慮しない。引き受けたのは相手なのだ。しかも実行することは簡単な作業に思えるが違うのだろうか。時々会話がかみ合わない時に、違和感と共に不安を覚える。
「私の伝え方が悪かったのかもしれない」という不安だ。
だけど、たとえ私の伝え方が悪かったとしても、何とかして伝えて改めて確認決定実行までたどり着くのが今の望み。
最近良いこともあった。
心の中で「わぁ」と声がして、私の中身が弾んだ。
この感覚を大切にしたいと思う。面白い小説を読んだとか、そういうことだけど。
そういう些細なラッキーをラッキーと思えることが、嬉しい。
美味しい野菜ジュースも飲んだ。嬉しい。
もう少し、頑張ろう。きっと私ならできると思う。と思う今の自分が嬉しい。
ストレス全開丸出しで書き出したけど、書き終わる今、なかなか清々しい気持ちになった。
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引っ越しの話は後日少しずつ追加記事にしていきます。
引っ越しの思い出(ジェンダーを考えた日)
あちこちで新生活や引っ越しの話が飛び交っていて、ああ、もう春なんだなぁと感じます。私が過去に経験した最悪な賃貸契約の話をします。
最初に、その時お世話になった不動産営業担当のMさん(女性)には大変お世話になったし、感謝しかないです。
私の最悪な体験は、悪質な大家によるものでした。
でも今になって考えてみると、大家は悪質だったんじゃなくて、バカだったんじゃないかと思います。バカすぎるし横柄で、責任能力低めな感じ。
今回のお話は言葉が荒くなります。なぜなら20歳そこそこの幼稚な私の経験だからです。恥ずかしいですね。
離婚をして、子供と生活するアパートを探しに近所の不動産に行きました。
そこで担当してくれたのがMさんです。終始親身になってくれて、トラブルが起きた時も誰よりも先に動いてくれました。
当時の私の仕事はWワークで、ひとつは昼間の、近所のレジのパート(8~17時、週5)
夜はバーでお酒を作ってました。(21~終電、週2くらい)
バーには色んなお客さんが来ていて、音楽が好きな人が多かった記憶があります。
そこのマスターがバンドをしていたので、自然とそうなったのかな。
そして私は、仕事は仕事だと思っていたので、この時はお客さんとお店以外で会うとは考えていなく、ただの飲み物作ってしょうもない話して大笑いする、楽しい時間を、お金を通して共有するだけの関係だと思っていました。
のちにそこの常連さんが私のピンチを救うべくお手伝いしてくれます。
Mさんの提案してくれた物件はどれも私が気に入るものでした。
住みたいエリアに制約があったので、いくつかの物件の中から、場所が良いということが決め手で、一つのアパートに決めました。
諸々の手続きを進め、契約も済み、鍵を渡され、Mさんに「本当にお世話になりました、ありがとうございました」と言いました。
Mさんは「こちらこそありがとうございました。ぜひまた機会があれば(引っ越しの)連絡くださいね」と言って、笑顔でお辞儀して見送ってくれました。
私は鍵を貰ったその日に、買って持ち歩いていたカーテンをつけに新居に向かいました。思ったよりいい感じに収まり嬉しかったことを覚えています。
次の日に引っ越し、荷物の搬入を友人に手伝ってもらいました。荷物が極端に少なかったので、朝から段ボールや布団を積み込んで始めた作業は、昼前には新居に収まりました。布団は、母が孫の為にオーダーメイドで作ったプーさんの綿布団(超新品)でした。
車を出して、荷物を運んでくれた友人が謝礼を頑なに受け取らないので、ちょうどお昼だしご飯をご馳走する!と言うとそれは喜んでくれたのでそうしました。
友人が引っ越しと言えば蕎麦だよね、と言うので蕎麦屋に決まり、友人は天ぷら蕎麦を食べて、私は力うどんを食べました。怒られました。私はうどんが好きすぎるので仕方ありません。
美味しかったねとご機嫌で新居に戻ったのは1時間経過した頃でした。
玄関のカギを開けると、足元に水が流れてきました。
慌てて中に入ると、部屋中が水浸しです。運び込んだもの全てが水浸しでした。
どこから水が?とあちこち水回りを中心に見回り、ふと何かが噴き出す音がすることに気づいた友人が、水回りのない寝室のドアを開けました。
広げた置いたプーさんの布団の上に、たくさんのコンクリートのような物が乗っていて、音はその真上からしていました。
天井の上を通る水道管が破裂して、コンクリートが破裂?して下に落ちてきたようでした。私たちはあまりの光景にしばらく呆然としていました。
そして、そうだ、Mさんに連絡しようと思い、電話を持って外に出ました。
電話口のMさんはビックリするくらい大きな声で「どういうことですか!?すぐに行きます!」と言って本当にすぐ来てくれました。
Mさんが到着する少し前に、謎の男が怒鳴りながら階段を上ってきて、私に怒鳴りつけました。「あんた何したんだ!あんた新しい人だろう!いったい何したんだ!下の階まで水が垂れてきてる!」すげえキレてたな…
私にもわかりません、今不動産に電話しました、すぐ来てくれるそうです、Mさんが来たら大家さんにも連絡します、状況が確認できたら必ず連絡します、お名前とご連絡先聞いていいですか、と低姿勢で言うと、その男は言いました。
「俺が大家だよ!!」
その声が響いて、私と友人の時が止まっていると、Mさんが到着し、開口一番、「怪我はしてませんか!?大丈夫ですか?」と私たちの方に駆け寄ってくれて、私たちは大丈夫ですと言うと「部屋の中見せてもらっていいですか」といって中に入って行きました。そのMさんの背中に向かって大家が「おい!○○○○!(不動産名)しっかり対応してもらうからな!」と叫んで下の階に降りて行きました。
Mさんは驚いて振り向いて、私たちに言いました。
「あの人誰ですか……?」
(つづく)
言葉にしないと伝わらないのは知っていたけど
私が何も言わないと、私は「何も考えていない人」として扱われるということを知った。知っていたと思ってたけど、改めて知った。
私が何をどのように考えているか、言うべき人には言っている。
誰に言うかは私が決めている。だけど、「相手」がそれを知っているとは限らない。
言うつもりのない相手に、私はあなたに私の考えを言うつもりはないです、という前提を伝えてないからだ。
かといって、無条件に人の考えを知ることができる、相手は必ず言う、という前提を持っている人と話すことに気味の悪さを感じた。
どうしてこの人は、自分が他人の考えを知りうることが可能だ、と思い込んでいるのか?どうして他人が「本音」を話してくれると信じて疑わないのか?
今まで何度も目にして耳にした、わたしにとってどうでもいいこと、を
10年分くらい投げつけられて、私はそれに何も応えなかったけど、答えなかったということは、何もない、異論はない、ということではなく、あなたに言うことは何もない、という意味もあったりする。
私が日常にある安堵を、幸せと感じるようになったこと、それが時々贅沢にすら感じること、できればこれ以上を望まず、これ以下も望まず、このままの状態を望んでいること(それを叶えていくのは私にとって決して簡単なことではない)、それを理解するつもりがない人に、「今のままではいけない」と「もっと、もっと”これ以上”を目指さないと駄目だ」と言われても、絶句である。
100円のハンバーガー食べたいと言っているのに、洒落オツな2000円くらいのハンバーガーを食べないと幸せになれないよ!と言われてる気分。
そんなわけねーだろ。
毒だなぁ
家の中にくちうるさいおばさんがいます
私にはわかることでも、私以外の人にはわからない、わかる場合がたまにある、ということを定期的に自分に言い聞かせないと、大失敗をする。(反対も然り)
大失敗をして傷ついたり恥をかいたりするのが自分ならマシなのだけど、相手を傷つけてしまったり、疲労困憊させてしまうのは本当によくない。
こどもと対峙する時、私は急かしてしまう。早く決断して行動した方がいい事を知っているから。でもそれは、私自身が失敗を繰り返してきて身に染みてわかったことだ。
失敗をしないとわからないことってあって、それって、実感というやつだと思う。
逆に言うと、失敗をしたらわかるってことで…
失敗をさせたくないから、こんなに急かしてしまったのだろうか?と考えてみたんだけど、しっくりこなくて、一週間くらい時間をかけてよく考えてみた。
「失敗して恥をかかせたくない」「失敗をして傷つかないでほしい」「傷ついたら立ち直るのに時間がかかってしまうかもしれない」そんなことだろうか?同じような場所をぐるぐると歩き回るように考えた。違う角度で見ればもっとしっくりくるかもしれない。
そして、私の中にある、こども(の出すべき決断や行動)を急かしてしまう理由がわかった。衝撃的なものだった。
「こどもが早く(解決、完了、行動)してくれれば」
「私がすっきりする」
私は自分がすっきりしたいがために子供を急かしていました。
とても反省している。私は子供をコントロールしようとしていた。求められた時の助言ではなく、率先して先回りしてああでもないこうでもないと余計なお世話を焼いていた。
失敗をして恥ずかしい思いをして、後悔をして変えようって思う事はあるし、必要だ。
失敗をして傷ついて、時間が経てば立ち直れる力が、子供には無いと思うのは、子供を信じてない。立ち直るためにはいくらでも協力するという私の意思を、日常の中で見せて行けば良いだけなのだ。
本当に自己嫌悪です。
気を付けて過ごしても、きっとまたぽろっと出てしまうと思う。
ぽろっと出そうになった瞬間に、飲み込めるように、練習します。
まずは、珍しく、美味しい何かが食べたいです。
何かが分からないんですが、何かこう…自分を慰めたいです。
あ、菓子パン食べたいです。ひくくらい甘いジャムぶち込んだむしろこれジャムじゃんみたいな菓子パン食べたい。
明日食べようと思います。
口煩いおばさんは、ただのジャムおばさんになるぞ。