未熟さは恥じない
自分が未熟だなと感じた時、恥ずかしい。
そこで思考停止してたのが少し前までの私。今はもうちょっと先の感情までたどり着く。私はこの未熟だと感じた出来事に、次があったなら、何をしようか、何を思おうか。
どんなに否定されても、変えられない自分だけの感覚ってあって、それは、指摘されたら恥ずかしいし嫌なんだけど、それでも、そんな思いをしても変えないだけの何かがあるからそれでいいんだ。
そうじゃなくて、そういうことだったんだって気づいた時や、そういうこともあるんだって受け入れた時に、今までの自分の感覚では全く違うように扱っていた物や出来事に出くわしたとき。
今までの自分を否定するわけじゃない。
私は成長したと自分を説得するような感じになる。
私は真実ばかりを優先して、ひとを傷つけたりした。ひとを疑ったり嫌ったりした。
でもそれは事実とは限らなくて、ひとつの出来事に遭遇した人が3人いたなら3つの事実があるってわかった。重きはひとつの真実じゃなくて、人数分の事実を理解しているかどうかってことかもしれないって。
思った。
毎日たくさんのブログを読む。
そのことが認知の成果のひとつになっている。
ひとの思考は面白いし、面と向かって友人知人に言われてもピンとこない事が、ブログの文章になっているとするすると入ってくる。
どうしてだろう?
今思うことは、私がこうして文字を打つように、画面の向こう側で同じように文字を打っている人がいるという事実が、嬉しいのかもしれない。
(どう表現しようか数分考えたけど、考えたうえで「嬉しい」というのが一番近い気がした)
_
たとえば、さっきまで知らなかったひとの存在を、文章を介して知り、私の世界に(世界と言うと大げさだけど、この瞬間からの生活の中に)存在していくことになる。
それは過去に遡って辿ったり、更新のない翌日の日中にも、きれいなものを見たときにも、不甲斐ない今日にも、その人の存在(文章)が私の頭の中に存在してる。
それが嬉しい。