日陰に蒔かれた種、水を与えられなかった新芽
もう今さら恨みつらみもない過去の事なんだけど、
それを思い出して、正しく認識しようとしている。
例えば、数学の問題を解いて、使った公式はあってるのに、答えが間違ってたら、間違ったところを見つけて、やり直すみたいな感じ。
例えば、一人でこんな夜に、思い出して考えてたらそれだけのことなんだけど、一人じゃない時に子供の頃の話になったら、正しく思い出して認識した子供時代の事を話す。
(30-40代になると、青春時代とかすっ飛ばして子供時代の話になりがち。私の周りは)
ただそれだけなんだけど。
私の幼少期の話をすると、「ちえのお母さんも大変だったんだろうね」「優しかったよね」「今さらそんな親を責めなくても、、」と言われる。
え?私、いま責めてた?ってなる。
責めた話はしていない。こんな子供時代でしたよって言っただけ。
多分、当時の私はお腹が空いたり寂しかったり寒かったりしたと思うよ、って言っただけ。お菓子、グラニュー糖だったとか。
あと、それから、お母さん、優しかった?本当?いつも家に居なかったよ。
仕事で忙しくて、ご飯は私が作ったよ。頑張ったのは私だったよ。
あ、友達が遊びに来てくれた時の母さんか。
友達には優しかったね。そうだそうだ。
あのね、私、無償の愛情って知らなかったんです。
そんな感情があるなんて知らなかった。私は褒められることをしたら愛されるんだと思ってたから。
「お姉ちゃん、頼りにしてる」って言われて過ごした。下の兄弟のめんどうを出来る範囲で頑張った。洗濯もした。そうして私は母に愛されていたのでしょう。
友達はね、家事とかしなくても、弟のめんどう見なくても、お母さんに愛されてるんだって。なんにもしなくても、愛してるんだって。
カルチャーショックだった。
私がわざわざ、フラッシュバックまでして、やってる認知療法は他人に話すことじゃないと思った。
その時の事を思い出して、赤ペン入れて、修正して、認める。
そのシンプルな作業の話は、誰かにすると、どうも、変な感じになる。
最終的に「もう大人なんだからさー!」って言われる。
確かに大人です。自分の過去をひも解いて、生きやすくするために必要な情報を整理してるんです。でも、認知療法を理解してもらえないと確かに何の話なのかただの雑談なのかわからなくなっちゃうかもしれない。
だからひとりでぼーっとしてる日々の隙間に見つけるだけでいい。
ちょっとだけ、悲しい。
でも全く落ち込んでいない。
すくすくと育った友人は、自分がどれだけ当たり前のことに恵まれてるか知らないんだろう。羨ましいと思う。妬みはない。
でも、きっと、噛み合うことはないと気付いて、悲しい。