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大人になってからアダルトチルドレンを知って、わかったことや気付いたことと、これからのこと。

辻褄合わせは疲れるから

時折自分の書いた文章を読み返してみる。

とげとげした気分の時に書いた文章を、とげとげしてない気分の時に読んだらどう思うかが気になるから。

 

文章を書く、という行為が、私の考える脳を刺激していると思う。

最近は本当に強く感じる。物事を順序立てて組み立てて、決断をして、行動する、それができるようになったからかもしれない。

結果が最良なものでなかったとしても構わない、と思えるようになったのも自分なりの進化だなと感じる。

基本的に、今日のコンディションで言えば最良だった!と考えるようにしている。

機械的で自分には合っている。(「最良ではなかった、他にもっと方法はあった」と気付いてはいても、そこを追求したところでろくな事態にならないので)

 

私生活の中で、「この人言ってることが前回と違う」と思う人物と対面すると、不信感につながっていた。

でも、同じような現象が起きていても、不信感を抱かない人物もいることに気が付いた。

その違いはなんだろう、と考えた。

 

たくさんの情報を伝えようとすると、自分の都合で、中途半端な接続になったりする。相手にその情報がすでにある場合、情報が省略されていても話は通じる。でも、相手にその情報がない場合はチンプンカンプンになったりする。

そういう場面で補足があるのとないのとでは全く違う。

それにチンプンカンプンになってる方の人間は、どこからわからなくなったのかもわからない場合が多い。

その「わからないまま進む何かの会話」の積み重ねが不信感に繋がっていたのかもしれない。

一方、言っていることがあべこべでも、「軸」が変わってない人物の言う事は不信感を抱かないみたい。

たくさんある情報を、理解しやすいように、アプローチする角度が変わって、言葉が変わるだけだから。

「結局は同じ」と思える安心感かもしれない。

私は頑固で、思い込みが激しいけど、たくさんの見方をこつこつと教えてくれる人の話を聞いていると、いつの間にか思い込みの枠が広がっていて、すっきりとした気持ちになれる。

心から、そういう考え方もあるんだな、と思えるようになる。

 

そんなことを考えたきっかけは、先日作業所の所長さんとマンツーマンでした会話からだった。

通所し始めた頃、私は、所長さんが何の話をしているのかわからないことが多々あった。大袈裟に言えば、全部自分に無関係の話を聞いているような気分だった。

そしてそれは自分がうつだから理解できないんだなと思い込んでいた。諦めてもいなかった。そういうものだと思ってやり過ごしていた。

でもそうじゃなかった。

所長さんが、「主語をおろそかにする会話をしがちな人」で「話がよく飛ぶ人」だった。

それがわかった今の私の脳は賢いとほめてあげたいと思う。

自分の想像で脳内処理するつじつま合わせはもうやめよう。

 

 

 

 

my backnumber to lock the door on the inside ジュニア辞書で精いっぱい作った後ろと前の文脈です。タイトルはこんなニュアンスで表したかったです。