敷き詰められた無情、問われなかった意味、重いものの正体
何もない場所に行ったことがある。
言葉にした途端に嘘っぽくなるのが悔しいけれど、残してみようと思う。
そこは真っ暗で、真っ暗で、真っ暗過ぎてもしかして真っ白だったかもしれない。
とにかく何もない。何もないのは、「無いように」「見えた」だけかもしれない。
物も時間も曖昧で、上も下も曖昧で、もちろん右も左も前も後ろも曖昧だった。
私はどこかに行きたいと思わなかったから、ずっと曖昧でいたけれど、あの時、行きたいと思った場所があったなら、どこにでも行けたんじゃないかって思う。
でもそれにしては身体が重すぎた。
とても重いって感じた。それは曖昧が終わる瞬間だった。
私にはまだ身体があるって思い出した瞬間に曖昧は終わった。終わった時に、そこには何もかもがあった。
今見てる現実と同じように、何もかもがあった。何もかもがある世界は特に美しくはなかった。私はこの目で見てはいないけれど、多分地球は青いんだろうなぁとわかるくらいには現実に戻った。
それなら何もない場所は美しかったのかと言うと、何もないのでそんなことはなかった。ただ美しくはなかったけど、軽かった。身軽で楽で、居心地はよかった。
自由や不自由もないので、どうでもよくもなくもなかった。
身体が重いと気づいた時に聞こえた音があった。
コーン、コーンという音、
私は、その音を聞いたことがあるし、聞いたことがないはずだった。
何もかもがある現実に戻ってしばらくたってから思い出して、照らし合わせた時、その音だと思った。潜水艇が、深海に居る時に、船の中で聞こえる音に似ていた。
この目で見たことがないけれど、地球は丸くて青いと知っているように、この耳で聞いたことがないけれど、深海に言った船の中でコーンという音がするのを知る、それはどこかで見聞きしたただの情報で、私の記憶ではないけれど、やっと手に入れた、というような気持ちになった。嬉しかったんだ。
その頃から大きなものと小さなものの正体が知りたくなった。大きなものについては追いかけることも出来たし、きりがないと大体理解できて飽きてしまったけど、小さなものは何一つわからず、悲しいような気持ちになった。宇宙と深海みたいだと思った。
未来と過去みたいだった。いくらでも作り出せるけど思い出すことのできない未来と、何にも触れられず知る事さえできない過去のような、中途半端な場所にいるしかない(刻一刻と未来と過去のベルトレーン)自分が、意味もなく、放り出されて、ただそれだけのことで、無力だとわかり、安心した。何もわからないことがわかり、安心した。
私はもうあの何もなかった場所には戻れない。どんなに願ってももう無理だとわかる。
人生の最期には行けるかもしれない。それは楽しみなので真面目に生きようと思う。
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これを読んでわかる人は、もしかしたら自分と同じに状態にあったのかもしれませんね。うつ病の投薬治療を始める前の私の体験でした。
良くなってきている今でも、ときどき、本当にときどき、懐かしくなります。