下弦の矛先
いつもとは違う時間に帰宅した。
そしていつもは行かない時間にコートを着てコンビニに行った。
家を出る前に、照明は消さなかった。本当にすぐ帰宅するから。
近所の家々は寝静まっているのか、こちら側から見えない部屋にいるのか、とにかくパッと見、私の住むアパートは、私の部屋以外は暗かった。
そして予定通りすぐ帰宅した。
私はアパート近くになって足を止めた。10メートルもない。アパート前に青空駐車場があるので、なんならアパートの敷地内だ。
暗がりに女がいる。
手ぶらの女がいる。
私は忍び足で近づいた。
女が、私の部屋を仰ぎ見ている横顔を見た。
普通の女だ。歳は自分とそう変わらない、若い女だ。
「こんばんは」
私は女に声をかけた。
女はあからさまに驚いて、こんばんは、と返事をしなかった。
そのかわり、「え?」と言い、不審者に遭遇したような素振りで私を見た。
だらんと垂れていた腕は胸元で固く凍っていた。
私はコンビニの袋を鳴らしながら、自分の部屋に入るために階段を上ろうとしたが、女がよけないので邪魔だった。
「すいません」と言いながら少しよけて、とジェスチャーをしてやっと、女は身体を動かした。後退り、転びそうになっていたが、特に声をかけず(心配もせず)私はポケットから鍵を取りだしドアノブに差し込み回した。
背中に視線を感じたまま、自分の部屋のドアを開けるのは気味が悪かった。
しかし、挨拶以上の関係もない人間に関わりたくない。覚悟を決めてドアノブを回した。ドアを引く前に、女が言った。
「下の人だったんだ」
あぁはい、、というような聞こえるか聞こえないかの音で曖昧に応えて、素早く入り、素早く閉めた。
いつもはしないチェーンをして、部屋に入った。深呼吸をした。
私はカウントした。1、2、3、4、5、、、、
20秒過ぎて、階段をゆっくり上る音がした。物凄いゆっくりだ。
私は部屋の照明を消した。そして点けた。そしてまた消した。さらに点けた。
それを何回も続けた。
階段を上る音が止まったり上ったりする。その間中、私は照明を点けたり消したりを繰り返した。
上る音が止み、ドアを開け、閉める音がした。音は真上からした。
私がいつもの時間に帰宅すると、真上の部屋からどんどんと床を叩く音がする。
酒瓶なのか知らないが、昔聞いたことのある、よく知ってる音だと思っていた。とにかく瓶のようなものを床にぶつけている。それが私の感想だ。そして「うるせえな」が率直な気持ちだ。
今日はいつもと違う時間に帰宅して、そのうるさい音がなかった。
だから気分よく読書が進み、夕飯が遅れた。本を閉じて時計を見て時間に驚いた。
夕飯を作り始める気力もなく、コンビニに行った。グラタンとお茶を買い、帰宅したのだ。
しばらくしても真上からどんどんという音は聞こえなかった。
私は真上の住人の顔を知ってしまった。
しかしその後、どんどんという音がぴたりと止んだので、顔を忘れてしまった。
普通の女に見えた。
だけど普通じゃなかった。
騒音を出すことを日課にしているような女だった。
そんな女が、挨拶をされて気味悪がるくらいには、私は透けていたのだろうか。
ーーー
初めての一人暮らしをした時の話です。
電気を点けたり消したりしたのは、そいつが私の部屋を見てたので、お前が思うよりこっちだってキモいヤツですよ~やばいヤツですよ~ってアピールしようと思ってしました。それが効いたのかどうかは不明ですが(その後二度と会うことはなく私は引っ越しした)、住んでる間、騒音で悩まされることは無くなりました。
騒音で悩んでる人の書き込みを見て思い出しました。
トラブルに発展するようなやり取りをするんじゃなくて「下に住んでるやつヤバい」と印象付けるのはいかがだろうか、という提案……ていうか無理じゃない?
なんですぐ引っ越ししなかったんだろう自分(笑)
あ、お金なかったからか!