共依存体質の人には近づかない
私は依存体質の自覚がある。
でも周りの人もそうだとは限らないということを理解したのはつい最近。
母と私は長い間共依存の関係にあったと思う。
人と言う字は、、というけれど、支え合うっていうより、「支えられるのが好きな人」「支えるのが好きな人」って感じです。
好きな人って違うか。支えられて当然と思ってる人、支えるのが当然と思ってる人、支えられて自己を保ってる人、支えることで自己を保ってる人、かもしれない。
私は後者だったんだけど、先天性の人ってきっといなくて、育った環境で培ってしまったものだと思ってる。ただ共依存体質の人って、その立場が完全に逆転するケースも多い。(対する人が同じ人物ではないことがある)
私の経験からでしかないけど、0対100の立場(よく言って1か99)でしか人間関係を構築できない。対人関係が、全くの他人か、すごい親密かのどちらかでしかない。
これも一見普通そうじゃない?と思われることだけど、関わってみたらわかると思う。
支えられたい人は尋常じゃないほど支えられてるし、支えたい人は尋常じゃないほど支えてる。フェアじゃないように思える関係だけど、どちらもそうしてることで自分を保っているという不思議。
不思議、と思える今の私。
だから私の目標は、対等な状態。
フラットな関係性、フラットな感情姓。
自分の脳を興奮状態にしないこと。(私の場合判断能力が著しく鈍る。)
対人関係において自分に唯一許してるのは、尊敬心。
これは私にとっては危険なんだけど、特定の人物に尊敬心を抱いた時に、得られるだけの情報をありのまま見ることを課してOKとした。
今のところとても順調で嬉しい。
春ごろから共依存体質の人に執着されてるんだけど、気のせいだと思うようにしてやり過ごしてたら、耐性が出来てきた。
2人いて、2人とも支えられたい方だなと私は認識してる。
今ちょっといい?などという前置きは存在しない純度抜群なストレートタイプ。
一人目は、突然自分の話を始めて延々と続く。適当な相槌には「ちょっと!ちゃんと聞いてる?」と指摘し、聞いてないと答えると「いや~信じられない!超適当だよ!」となぜか叱責される。
二人目は、私とした会話で気に入らないことがあった時、日を改め第三者の前でその話題を持ち出し、「chienetu(私)にこんなこと言われて傷ついた~」と報告し、私に謝罪、あるいは説明を求める。嫌いになって離れて行けばいいのにと常々思う。
それにたいてい、そんなこと言ってないとかそんな風に言ってないとか、言った言わないのアレになり、もう説明と言う名の言い訳になっちゃってるのも嫌になってきて、ひとこと「ごめんね」と言うようにしている。
相手の行動や自分の行動からも、思いやりとは何かを考えるけれど、あんまり考えると支え始めてしまうので思考停止するようにしてクリア。
私は生きて上で最低限の社交性は学びなおしていきたいと思っている。
それを忘れなければ大丈夫、と言い聞かせてる。
そしてこんなことを考えてしまったり、それをブログに書いてしまったり、その時間帯が深夜であることが切実な状態だな、、と自覚するのに成功しました。