your side / a lot of the myself
耳触りはいいが、これは皮肉だ。今の私にはちょうど良い程度だ。
「私は自分を信じている」
私が自分に向ける皮肉で、私は自分を信じていない。半分嘘で、半分本当だ。
それは子供にも言っていて、私の言う事は、たとえ説教の間であっても、全部信じない方がいいと伝えている。
私が言っていることに疑問を感じたなら、その疑問を解決する方に時間を使った方がいいし、怒りを感じたなら無視をした方がいい。矛盾を感じたなら、矛盾の正体を明確にして、覚えておいた方がいい。
私は自分を無力ではないと奮い立たせている。少なくとも子供の前では無力ではあれない。偉そうにしてるくらいが丁度よいと思っている。私が自信がある風にしていないと、子供が不安を感じると思っているから。
不安を感じた時、言葉にしてほしいと伝えている。
だから毎日、バカみたいに同じことを聞く。「楽しかった?」「辛かった?」「ヤバかった?」「うけた?」
「普通だった」と答えられた時には、「普通ってなんだよ」「どの普通だよ」「グラデーション知らないのかよ」と10回くらいはしつこく独り言のように言っている。
すると「うるさいね!」と子供が笑うのでやめられないのだ。
この時間を過ごせるのももうあと僅かで、そう実感するたびに、感謝の気持ちが湧く。
私をここまで連れてきてくれてありがとう、と思う。
これってどういう意味?と聞かれることも面白かった。勉強でわからない時に聞いてくれることも嬉しかった。古文で覚えられないところがあると言うので、背景を知れば定着するかもしれないと思い、半日かけて調べた情報を、B4紙にまとめてトイレの壁に貼った。私は物凄い達成感を味わった。学生の頃の自分にこの情熱があれば古文も楽しかったんだろうなと遠い目にもなった。
二日後、トイレに貼りつけた私の傑作古文図解は剥がされて、目の前でゴミ箱に捨てられた。「なぜ!?」と聞いた私に子供は言った。「もう覚えたから。ありがとう」
私は泣いた。泣いたというか号泣した。私の傑作作品がゴミ箱で春の心地こそすれだった。泣き叫ぶ私を見て息が詰まるくらい爆笑してる子供を見て嬉しかった。
そんな毎日が楽しかった。
私が自分を信じるのは、私の事を信じてくれている存在があるからで、自分一人では無理だったと痛感している。
その役目も終えて、私が一人になっても何も心配はなくて、私はこれからも自分を半分信じて半分嘘だと思って生きて行くだけだと思う。
夜になるとやりたいことが際限なく溢れてきて、眠れなくなってしまう日が結構ある。
でも一日でやるべく事の優先順位も時間も決まっているので、今まではやらなかった。
それをこれからトライしていこうと思う。
誰に何を言われるでもなく、他者の評価のない場所と環境で、ひっそりと針に糸を通す、縫う、アイロンをかける。自己満足。自己満足の時間を過ごせたらいいなと思っている。
楽しみだなあ。