鉛のような身体に見えますが中身はあなたが思うより軽やかです
鉛のような身体に見えているようですが が正しいです。
「あなた」とは、私が特定の不確定数の人物(達)に対して、良くない感情を示す時に使う相手を指し示す言葉です。
攻撃的な私の意識をそこに集約して、他の言葉には攻撃的な意味合いが出ないようにしようとした結果です。
読んだ人がどういう印象を持つのかは知ることはできませんが、、、
自己満足です。
先日、私をコントロールしようとした人がいて、(善意を持って、私の良くないところを良くないと思う理由も説明してくれた上で、こうした方が良くなるということ、そしてそれをするには私一人では大変だろうから全面的に協力する、ということを、私は「コントロールしようとした」と表現します)私はそれを拒否した。
拒否した理由も説明したけど、それは相手に全く理解できないものであったし、「理由」ではなく「言い訳」だと捉えられたのがよくわかった。
話している途中から、得体のしれない気持ち悪さがあった。
あの「不都合」みたいな気持ち悪さってなんだろう?
たとえるなら何ていえばいいだろう?と考えていた。
そしてとても近い例えを思いついた。
お互いが見たことのある映画Aの感想を言い合っていて、だけど実は出演者が二人も三人も偶然同じだけど違う映画Aと映画Bの感想を言い合っていた。みたいな感じです。
それに気づいたので、その映画Aは見ていないし、この先見る予定もない。と伝えたら、今は映画Aの話をしているのだから見るべきだ、映画Bが面白かったと言うのなら絶対に映画Aも良いと感じるはずだ、一人でレンタルに行くのが心細いなら一緒に行ってあげるから、見てみてから感想を言うべきだ。
という感じに似ています。
この例えを思いついた時に、本当の意味ですっきりした。
同じ意味合いのテーマを語る時、あちこちにこんな感じのズレがあったんだろうな、と過去を振り返ることができたから。
そしてそのズレは、気付いた方が修正して、テーマを絞り込んでまた語らうことも出来るだろうし、それならしたくないという事もあるだろうし、話しの腰を折られたと言って怒ってしまう人もいるんだろうと。
想像力が身についた気がする。
悔いというか、残念だったのが、私は「あなた」の言う事も、している事も、否定していないし、立派だと思っている。けれど今の私には必要がない、今のままで幸せなんだと言ったら、それを否定された事。
私は「わかってない」らしい。
それで私は構わないのだけど、「あなた」のことを私はずっと昔から賢い人だと思っていて、今回の事で、それは私の思い込みだったのかもしれない。
そんなことを思った。
時々、元気だ、健康だ、という人と話していて怖くなる時がある。
私の目には「ハイ」の状態に見えているから。
でもそういう風に見えてしまう人の場合は、やっぱり少し無理をしていたり、病気になりそうな気配は感じるので、そういうことなのかもしれない。
松岡修造さんクラスになると、怖さは感じない。
ありがたくなるくらいだ。
ー(備考)ー
前回記事を書いた後に、ブログタイトルを変えたらしく、自分で驚きました。
全く記憶にないからです。記事を書いたことは覚えているのに。
それですぐに戻そうと思ったのですが、「どうして変えたのかな」と気になって、しばらく考えてみることに。
それで今日。それらしい理由も見つからないし、何より自分が見慣れないタイトルに怖気づくのに耐えかねました。戻します。