自分で掘った落とし穴の場所を覚えていられるか
他人の悪意に気づいてしまった瞬間があります。
他人Bが他人Aに向けた悪意なので、私は全く無関係の立場です。だから気づいたのかもしれません。
その時、こんなバカみたいな罠にひっかかる人いるのかなぁと思って見てました。「まんまと」ということってこういう事なのか、というくらいまんまと引っかかっていました。華麗に、見事に、美しくバカ丸出しの状態を確認したとき、唖然としました。
善意を装った悪意というものはひとつのミッションのように、しっかりと進行できるように、確実に達成するために、シンプルになるんだな、、と思いました。
ふと、あれは悪意があってのことだったのだろうか、と考えてみました。
本当の善意でしていたなら、ただの親切な人だ。だけど私にはどうしてもそう見えなかった。そもそもに他人Bには、他人をコントロールしたいという欲求みたいなものが滲んで見えていた。それは私の勘違いかもしれないし、事実かもしれない。
本当のところはどうであれ、他人をコントロールすることが少し上手だなと思っていた。「あの人にこういう風に動いてほしいな」と思って「こういう風に動いてください」と直接言うのではなく、そういう風に動くよう仕向けるのがうまい。
「第三者」には、まるで「あの人」が「自主的に動いた」ように見えるようにするのが他人Bは少しだけ上手だ。
でもきっと、もうすぐそれがバレると思う。他人Aにバレるのではなく、それらを見ている第三者が気づく。そしてその第三者達は、気づいたところで何もしないだろう。
第三者達も私と同じく等しく他人なのだ。
自分で掘った落とし穴の場所は、いくつ掘ろうが、覚えていれば、自分自身は落ちないだろう。だけど、自分以外の人が掘った落とし穴の場所は知らないでしょう。
それは、今日掘ってるのかもしれないし、大昔に掘ってあったものかもしれない。掘った本人が忘れてる廃落とし穴だってあるだろう。
そういうのを、軽視してると、まさかが起こる。掘ったことを忘れた本人と一緒に落ちるかもしれない。
私は随分と前の事だけど、ホステスとして働いていた時期がある。
お酒はあまり好きじゃなかった。だけど仕事なので飲んでいた。
自宅で母親が母親の友人とお酒を飲んでいた時、私にもお酒を勧めてきた。友人も勧めてきた。もちろんよかれと思って。楽しいお酒を一杯、乾杯、程度のものだった。
私は断固拒否した。「私にとって酒はお金を貰って飲むものだから」そう言って断った。一度強く拒絶するとしつこくはされない。
数年後、母もその友人もアル中になった。この二人はその後一度も病院に行ってない。
アル中だと思ってないからだ。
私の母はその混沌の中死んだが、友人はまだ生きている。おそらく今も、ハンバーガーを頼んだらコーラを飲む若者のように、酒を飲んでいるんだと思う。
アル中末期の患者の脳の写真見たことないのだろうか。
私はない。でも末期の人は見たことも話したこともあるが、もう何も通じ合えない異世界の人だった。みりん飲んだらお終いだね。
追記(2/5)いくつか読んでみて参考になったので。今日付けのランキング一位記事の内容も、ざくっとしててわかりやすかったです。