遺書がない事が信じられなかった
5年前に母親が死んだ。
自殺した。
そのとき、私は一緒に暮らしていなかったから、見つけてくれたのは母親の姉である叔母だった。
その日の出来事を思い出すと、セットのように前日の事を思い出す。
私は強く願ってしまった。彼女がもう、そうなればいいって。
彼女がそうなってしまうまでには、本人にも周りの人間にも長くて苦しい時間があった。
今となっては、長くもなかったし、苦しくもない。
自殺を避ける方法はいくらでもあった。守る方法だってたくさんあった。
なぜ、できなかったか。
私自身がうつで、一番落ちていたころだったこと。
私の母親の電話攻撃で、叔母が精神を病み始めたこと。
その精神を病み始めた叔母からの電話攻撃と、母親からのメール攻撃で、私のうつがさらに悪化したこと。
母親には理想の生活があって(どれもこれも叶いそうな平凡なものだったけど、その時の彼女には難しい状態だった)それが出来ないと、わめきちらした(らしい)
更年期障害で体調は安定しなくて、もちろん感情も安定しない。
一日の間に何度もその安定と不安の波が押し寄せてくる。そして身体はいう事を聞いてくれない、きっと辛かっただろう。
そしてそれを分かってほしい娘に冷たくされたら、涙も出ちゃったと思う。
彼女は更年期が始まって、うつも発症していたと思う。
病院に行きなよと言っても聞いてくれなかった。
病院に行こう、って言ってたら、違ったかもしれない。行けたかもしれない。
一緒に病院に行ってあげればよかった。
毎日のように、お金が足りない死にたいって言ってた。
数千円を何回用立てても、それは彼女の喉を潤すチューハイにしかならなかった。
更年期障害、うつ気味、アル中気味、常に金欠
それが彼女だった。
私の町に呼んで、総合病院に入院させようと思っていた。
病院と私の家の往復で過ごせば、なんとかなるんじゃないかと思ってた。
だから「あの本送ってほしい」というメールを貰った時に、
本とは他に、私の町に来るまでのバスのチケットを片道で同封した。
私は彼女と生活を共にする覚悟を決めていた。
それは遺品整理の中で、彼女の財布から見つかった。
何かのお守りのつもりだったのか、黄色い折り紙みたいな紙で包んであった。
使うつもりはなかったのかもしれない。
私の住む町ではない場所での葬儀の後、嫌な思いをすることになった。
たくさん、嫌な思いをした。
悲しむ暇もないほど。
母と離れて過ごしていた数年で、私の知らない母親になっていて、たくさんの人に迷惑をかけていた。でもね、その迷惑って、それくらいしてやってよ、という人情的なものだった。してもらえなかったのは、その頃の母が、横柄な態度だったからだと思うんだ。
私は、時々、いまここに母がいて、私と生活を共にしていたらと考えることがある。
もちろん通院はしてもらう条件はつけちゃうけど。
色々考えてみるけれど、遺書がないから、彼女が最後に「これだけは言っておく!」という気持ちを知ることは叶わなかった。
最初、遺書が盗まれてないかという事態になった。
これについては後に話せる日が来たら書く。つらいから。今も。
私はうつ病で、日々が精いっぱいであったけど、葬儀後から少しずつ生活リズムを整える努力ができたと思う。四十九日は狭い私のアパートに、遠くからお坊さん呼んでお経読んでもらった。
お坊さん座るために超ゴージャスな座布団買ったのが面白かったのを覚えてる。
そしてその時、久しぶりに笑ったことに気付いたのも覚えてる。今月は命日なので色々したいと思ってる。
思ってる、だけで終わってしまうかもしれない、むしろその可能性大。
今さらながら願ってしまう。
お母さんが、苦しくてつらいものから解放されて、しあわせであるよう
残り仕事は、のろまだけど私に任せてね、と思えるほどには時間が味方したよ。