彼らの10年後、50年後、そのとき私は後悔する
修正加筆しました。「ーー」部分がそうです。
ー
親の都合で貧困家庭になっている。
その家庭の子供を責めないでほしい。
長期的な取り組みについて、解決方法について、手順を教えてあげてほしい。
当たり前が当たり前ではない、というのは、どれか一つの事ではないのです。
本当に、どうしたらいいのかわからないのです。自分が困ってることにも気づけないのです。ー知らないことを知らないでいます。時々強い正義に傾倒した憧れを抱きます。その選択や状況は間違っている場合が多いです。ー
子供は、教えてもらえる機会があると、理解できます。成長します。
その過程で親との確執が生まれるかもしれません。確執というか、信頼関係の揺らぎのようなものです。それがあったとしても、子供にとって必要な痛みです。ー親の不出来や否定は子供本人が否定されたと感じて悲しんだり憤慨したりするかもしれない。でも「親と子供は別の人間である」ということを根本的に理解してもらいたいー
親の痛みは、親自身が消化する立場です。子供の成長を喜べる親になれていたらいいなと思います。
(ー親は、正直、子供に依存しないでいてくれて邪魔さえしないでいてくれればどうでもいいと思っているー)
その子供が将来、大人になり、自立した日々を過ごした時、貧困とは何だったのかと改めて気づきます。(ーここで自分の親に対しての疑問が噴出ー思考ー決別ー)そして貧困の連鎖が止まります。ー教育が教養として実を結んでいられたらー
それにはとても、長い時間がかかります。
でも、それをしないと、この貧困の連鎖は続くばかりか広がっていきます。
増えていきます。
そうなるともう、きっと、もう、無理だと思います。
スラム街があちこちに出来ます。今よりももっと多く、広く、スラムが当たり前みたいになります。
ーそのスラム街はきれいな形をしています。外側からわからない。玄関のドアを開けて、部屋のドアを開けるまで気づけない。ー
10年後50年後の、大人になった子供たちが、自分(今の大人、今の社会)の怠慢な態度のせいで貧困な生活(だけならまだしも、です)を強いられてる未来は、悲しいです。
だから今の私で、できるだけの事をしようと思います。
ー10年後、50年後の老いた私は、おそらく病気の今の私よりも無力だと思います。 その時に感じるだろう後悔は、すればするほど人を傷つけるだけの酷く醜い偽善にもなれない、凶器になる。今は今で、何もしないで悲しんで邪魔をして、時が経過したらしたで凶器にしかなれないとは、あまりに強すぎる無力だ。ー
微力ですが、続けようと思います。
ーだから、今できることをしようと思います。ー