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大人になってからアダルトチルドレンを知って、わかったことや気付いたことと、これからのこと。

待ってない

カモミールティーは好きじゃないけど

頻繁に飲む時期がある。ティーパック20個分くらいの消費で終わる。

「飲んでおかなければ」と感じて飲む。それが今時季だ。なぜかはわからないけど、飲む。寝る前に飲む。「もう飲まなくていい」と感じて飲むのをやめる。数日の出来事だ。

今夜は飲みたくならないから、もう終わったんだろう。

私の体の中で何かがそう始まってそう終わった。

 

まだ春は来ない。

 

 

笑ってくれてありがとう

期限が決められてる決断しなきゃいけないこと

期限がなくて選択しなくちゃいけないこと

私の頭が、ものすごく冴え渡っている時と、ものすごく鈍っている時があるのを自覚していて、ものすごく冴え渡っていなくてもいいから、せめて少しまともな回転をしてくれる時に考えて決められるように、少しずつメモを残していかないと(明日の自分のために)、せっかく考えて決めたことを忘れたみたいにまた1からぐるぐると同じこと考え始める。(大体ろくな方向に行かない答えしか出せない/正確には答えですらない)

 

今、私が直面している些細な問題はひとつではなくて、別々の些細な問題が幾重にもなっていて、グループにできる問題と、全く関係ない独立した問題を分けて、いっぺんに考えないようにする訓練が必要だと思った。

 

先日、人と話す機会があって、違う物事の会話の途中から、ふいに私の思考の癖のことについて指摘された。(注意ではない、「自覚ある?」って問いみたいな)

その人が言うには、私は一度にたくさんのことを同時進行で考えすぎている、ということだった。

会話の中でそんな風になってるとは、、全く自覚がなかった。

 

たとえば、夕食のメニューのレパートリーについての会話をしている時、私は自分のレパートリーの事を考えている。

その時に明日の朝食と夕食の事も考えていて、子供のお弁当の中身を考えていて、好きな音楽の事も考えていて、買い出しに行かなきゃいけない食材の事も考えていて、奨学金の仕組みの事も考えていて、自分の将来(1年後2年後のことではなく、10年後)の事も考えている。

そして目の前にいる人の夕食のレパートリーの話を聞いている時に、一度だけ見たことがあるその人の家のキッチンの事を思い出している。

食材の話に触れた瞬間にエンゲル係数を勝手に想像し、私はもう少し積極的に食事について考えなきゃいけないよなぁと思って、去年本屋で見かけた料理本を思い出す。

価格もタイトルも思い出せなくて、表紙だけ覚えている。今度また本屋に行ったときに探してみよう、と決意した直後に、その本を買うお金で食材買った方がいいんじゃないかと迷う。

 

このようなことが、「ちえちゃんち今日の夕食何にするの?」と言われた瞬間に、頭の中を駆け巡る。そしてしばらくうんうん言った後、「全然決めれない、カレーかな」と答える。

先日はそれでそっか~と終わらず、「私と話してるとき、何考えてた?」と聞かれたので、上記の事を答えたら、大笑いされた。信じられない、なぜ~!とその人は笑っていた。それで、普通は(あくまでもその人の言うところでは)会話の間にそんなに沢山の、しかも関係のない事まで考えないと言うので、私は驚いた。

そしてその癖を自覚したので、ここ数日は訓練している。

別々に考えること、決めること、決めたことを、メモしてから次の事を考えるようにしている。

癖なので、すぐには治らない。すぐには無理だけど、楽しいから続けられる。

考えてから決めるまでの時間が短くなって、楽に感じるからだと思う。

頑張って続けてみよう。

曖昧な記憶の中から心地よい時間だけ取り出して思い出にした

腐っても分解されて朽ちてくれない不気味な感情のなり損ないみたいな確かな事実は

どこにしまっても同じだった 同じだったから もう

大切にするのは難しかったけど大切だったよ

 

途中まで一緒に歩いた

たったそれだけの時間に沢山のことがあったなんて

信じられないけど 答え合わせもできないけど どうせ間違いだらけだし

それでも編み上げたもの広げられたら だいたい 同じだよ

きっとそうだよ

 

 

 

 

 

 

 

おばあちゃんから貰った手紙

何歳頃だったか忘れてしまったけど、祖母と手紙のやり取りをしたことがある。

私は「おばあちゃんお元気ですか」と書いた。他の内容は忘れてしまった。

祖母からの返事が届いて、手紙の内容に衝撃を受けた事だけ覚えている。

 

おばあちゃんがくれた手紙の文章は、ひらがなとカタカナが多く、当たり前のように縦書きで、「○○しています」の「ます」は「〼」になっていた。

当時おばあちゃんは70歳くらいだったと思う。

内容に、ちえちゃんは字がとてもジョウズですね。ばあちゃんはあまり字がかけないのでハズカシイですがちえちゃんが手紙をくれたのうれしかったのでお返じしますね。

ちえちゃんは学校できちんとべんきょうしておりこうさんですね。とてもかしこくてばあちゃんのじまんの孫です。

 

このような内容でした。あと、同封した花の絵を喜んでくれました。

祖母は小卒で、小学校に行きながら畑の仕事も手伝っていたらしく、文字の読み書きも小学生低学年レベルくらいで、数学は全くわからなく、簡単な足し算と引き算と掛け算ができるくらいだった。

当時の私は、おばあちゃんはあんなに美味しいご飯を作れるのに、勉強が全然出来ないのに大人になってたのが不思議だった。

本を読んでみたいけれど、読めない字が多すぎるから楽しめないと言っていた。

(新聞の四コマ漫画は楽しいと言っていた)

私が大人になった今なら、字を読まなくても面白い本を探してあげられたのにな、と思う。

祖母はもう随分前に亡くなったのだけど、私の両親が離婚をしていたので、父方の祖母の最期はいつだったのかわからない。

お墓も知らないままだ。

手紙も無くしてしまった。

でもおばあちゃんは怒らない。きっと私を好きだから怒らない。田舎くさい身なりで、いつも適当なおばあちゃんだった。でもお料理はとても上手だった。そして会う時にはいつも言っていた。

ちえちゃん戦争はいけないよ、何があっても戦争だけはいけないんだからね、って。

勉強はできなかったけど、祖母は大切なことをたくさん知っていたし、生きる方法も料理の仕方も知っていた。私の母は料理が下手だったので、祖母の作る普通の家庭料理はご馳走に思えていた。こんなに凄いことできる人が、子供の私に言ったんだった。

ちえちゃん勉強はちゃんとするんだよ、悪い人に騙されないように、たくさん勉強するんだよ。

祖母から貰った手紙の事を思い出して、勉強の意味は万人に共通するものではなくて、個人が意味を持ってすればいいんだと、気づいた夜でした。

 

おばあちゃんお元気ですか。

自分で掘った落とし穴の場所を覚えていられるか

他人の悪意に気づいてしまった瞬間があります。

他人Bが他人Aに向けた悪意なので、私は全く無関係の立場です。だから気づいたのかもしれません。

その時、こんなバカみたいな罠にひっかかる人いるのかなぁと思って見てました。「まんまと」ということってこういう事なのか、というくらいまんまと引っかかっていました。華麗に、見事に、美しくバカ丸出しの状態を確認したとき、唖然としました。

善意を装った悪意というものはひとつのミッションのように、しっかりと進行できるように、確実に達成するために、シンプルになるんだな、、と思いました。

 

ふと、あれは悪意があってのことだったのだろうか、と考えてみました。

本当の善意でしていたなら、ただの親切な人だ。だけど私にはどうしてもそう見えなかった。そもそもに他人Bには、他人をコントロールしたいという欲求みたいなものが滲んで見えていた。それは私の勘違いかもしれないし、事実かもしれない。

本当のところはどうであれ、他人をコントロールすることが少し上手だなと思っていた。「あの人にこういう風に動いてほしいな」と思って「こういう風に動いてください」と直接言うのではなく、そういう風に動くよう仕向けるのがうまい。

「第三者」には、まるで「あの人」が「自主的に動いた」ように見えるようにするのが他人Bは少しだけ上手だ。

でもきっと、もうすぐそれがバレると思う。他人Aにバレるのではなく、それらを見ている第三者が気づく。そしてその第三者達は、気づいたところで何もしないだろう。

第三者達も私と同じく等しく他人なのだ。

 

自分で掘った落とし穴の場所は、いくつ掘ろうが、覚えていれば、自分自身は落ちないだろう。だけど、自分以外の人が掘った落とし穴の場所は知らないでしょう。

それは、今日掘ってるのかもしれないし、大昔に掘ってあったものかもしれない。掘った本人が忘れてる廃落とし穴だってあるだろう。

そういうのを、軽視してると、まさかが起こる。掘ったことを忘れた本人と一緒に落ちるかもしれない。

 

私は随分と前の事だけど、ホステスとして働いていた時期がある。

お酒はあまり好きじゃなかった。だけど仕事なので飲んでいた。

 自宅で母親が母親の友人とお酒を飲んでいた時、私にもお酒を勧めてきた。友人も勧めてきた。もちろんよかれと思って。楽しいお酒を一杯、乾杯、程度のものだった。

私は断固拒否した。「私にとって酒はお金を貰って飲むものだから」そう言って断った。一度強く拒絶するとしつこくはされない。

数年後、母もその友人もアル中になった。この二人はその後一度も病院に行ってない。

アル中だと思ってないからだ。

私の母はその混沌の中死んだが、友人はまだ生きている。おそらく今も、ハンバーガーを頼んだらコーラを飲む若者のように、酒を飲んでいるんだと思う。

アル中末期の患者の脳の写真見たことないのだろうか。

私はない。でも末期の人は見たことも話したこともあるが、もう何も通じ合えない異世界の人だった。みりん飲んだらお終いだね。

 

追記(2/5)いくつか読んでみて参考になったので。今日付けのランキング一位記事の内容も、ざくっとしててわかりやすかったです。

 

www.skincare-univ.com

 

村上春樹の電話ボックスに脚注がつく日

私が小説を読むようになったきっかけは江戸川乱歩の作品で、確か小学6年生頃だったと思う。長い夏休み、近くの図書館に通った。

図書館に通い始めたのは、本を読むためではなかった。自宅では宿題ができなかったからだ。自宅にいると、家の事をしなくてはならないからだ。

自宅で隙間時間を見つけてするより、図書館に2日間くらい通って済まそうと思っていた。

そのついでに読書感想文の本を選ぼうとしていた。自宅には当時流行ってい折原みとの小説(今でいうライトノベルの手前のような存在だったと思う。そもそも折原みとは小説家ではなく漫画家だったはず)しかなくて、当時の担任がその読書感想文は認めないと言ったから、別の作品を探さなくてはならなかった。

私はその頃、長い文章を読むのは苦痛であり面白くないと思っていた。だから1円たりとも小説にお金を使いたくなかった。

宿題を半分くらいまで終わらせて、もうどんなに粘っても、それ以上やる気が出ないので、私は本棚を眺めていた。宿題の続きをすることも、家に帰ることもしたくなかった。仕方なく一番目立つ背帯の本を手に取った。「一番目立った」のは、今思えば気のせいかもしれない。その当時の私が、無意識に興味を示した結果が目立たせた背帯だったんだろう。だって、それだけが目立つにはあまりにも本が多すぎた。

江戸川乱歩一寸法師が、私の小説デビューだった。

なんて恐ろしい話だ、私は図書館にあった江戸川乱歩の作品をほぼ読み終えたのは中学1年生が終わる頃だった。自分の目に映る世界が変わっていった。

結局小学6年生の夏休みにどんな本の読書感想文を書いたかは覚えていない。

一寸法師の感想だけは書いてはいけないと思ったのは覚えている。こんな恐ろしい話の感想は書けない、ではなくて、感想を書いては怒られる、と思ったのだ。

だって面白いと思ってしまったから。とても面白かったから。

中学1年生の読書感想文は吉本ばななTSUGUMIを選んだ。

ものすごく適当に選んだ。表紙が美しいと思った本を選んだ。吉本ばななを知らなかった。だから中1の私が選んだのはタイトルでも作者でもなく、絵を選んだことになる。

面白かったが、江戸川乱歩を読んだ時のような気持ちにはならなかった。それでも感想文を書いた。何かの賞をもらった。2年生の時も適当に何かを選んで適当に書いて何かの賞をもらった。

3年生の時には読書感想文は絶対提出ではなくなっていて、私は一寸法師の感想文を書いた。とても恐ろしくて、とても面白かったと書いた。感想文は提出しなかった。

 

高校生の頃、村上春樹ノルウェイの森を上巻だけ読んだ。高校生の私にはさっぱわからなかった。主人公の男の動向全てが意味不明すぎて不愉快になった。出てくる女たちに意味不明さや不快感を感じなかったのだから、当時の自分の情緒不安定さがわかって少し笑える。

高校を卒業して最初の夏に下巻を読んだ。上巻の内容はすっかり忘れていたけど、下巻を読んで思い出せた。それってすごいことだ。

16歳の私は、主人公の男が意味不明で不愉快だと感じていた。19歳の私は女達の方が意味不明で、でも、可哀そうだと感じた。主人公の男に感じていた意味不明さはなくなっていたけど、なんて弱くてずるい男なんだと思った。

そして電話ボックスが特別な意味を持った。あの透明な扉を開けて居座る空間に公共性はない。それまでの自分が利用していた空間とは別のものになった。

あの頃、知らなかったけど、あの空間は私たちが思うよりももっとプライベートなものだった。透明で外側から丸見えの縦長のガラスの箱、そこに入って私たちは笑ったり別れ話したりしていた。

そんなただの記憶は、作品が新しく刷り直されるたび、時代を過ぎてしまいすぎて、あともう少ししてしまえば、説明文がつくようになるんだろうか。

読書感想文に抜粋されてしまうような、存在になって、クラムボンみたいに。

 

 

帰る場所はないから作る

去年は10月頃からずうっと調子が悪かった。

今も万全ではないけれど、昨日よりはマシだとわかると気が楽になる。私はマシかマシじゃないか程度の差で今日を生きる。本当はもっと丁寧な暮らしをしたいけど、そんなことを現実にしようとすれば直ぐさま破綻するだろう。

今日の私には昨日までの分の人生しかないから、突然丁寧にはなれない、そのことを受け入れながら生きよう。

 

私には「実家」という場所がない。だからお正月やお盆に「帰省する」という感覚は随分前からない。そして自分が困ったことになった時などに身を寄せる場所もない。

「友人」を頼れるか頼れないかという話ではなくて、もっと単純な「実家に帰る」という行為についての話。

自分が生まれてから今日までずっと同じ家に親が住んでいる、自分が巣立ったとして、自分がある程度大人になるほど時間が経っても、親はいつもそこに住んでいる、それが奇跡のように思える。

子供が成長する段階で「引っ越しが頻繁である」と、人格形成に大きく関わるというのを何かで読んだ。アダルトチルドレンである私ももれなくそう思う。

私は今までの人生で15回以上引っ越しをしている。私の記憶がある限りの回数なので、もしかしたらもっと多いのかもしれない。内3回は私自身が大人になってからの単独行為で、それ以外が親の都合だった。僅かに残る記憶の中に「懐かしいと思える場所、景色」は一つもない。何もかもが曖昧で、見覚えのある住所という数字でしかない。

今住んでいる町が一番長い時間を過ごした。私が病気を発症した後、病気の発症の原因の一つであった人物から逃げるために選んだ場所だ。(私自身にうつ病になりやすい要素もあった)

人生の中で一番長く住んでいる。私は初めて住まいに愛着を感じている。

厳密に言うと愛着とは違うかもしれない。とても安心する、感じ。

長く住めば壁紙が傷むことやフローリングが剥げること、備え付けの備品が壊れたりすること、それを直して使うこと、そういうのを知らなかった。

あくまで賃貸のアパートだし、、という生活の中で、自分で部屋をメンテナンスをするという行為などする間もなく、引っ越しをしていたからだ。

 

もう数年後に私の子供は巣立つ。私は「おかえり」という場所を作る。

私にとっては奇跡で、自分には関係のないお伽話の中のような場所だったけど、子供にとっては普通のことであるように、同じ場所で過ごしていけるようにしたいと思う。

(子供自身はそんなこと望んでないと思う、、)

 

去年の1月に書いた記事に自分のために生きたい、と書いた。目標は達成されたように感じる。調子を崩しても、それを悪化させるような出来事は回避できた。

今年もさらに、自分のために生きたい。避けられない変化を、怖がってもいいから受け入れていきたい。

去年調子を崩してから、私は意識的に生活のほぼすべてを目標達成型にした。「しなくてはならないこと」を「したくない時」にしたくない理由は数えきれないほどある。

それ全部を、そうだよね、したくないよね、と自問自答形式にして認めてから、どんな中間があろうとも、結果「しなくてはならないことを、することができた」に重きを置いた。どんな途中(信じられないくらい恥ずかしい失敗をしても、他人に対して憎しみが生まれても)を経てもいいから「できた」ことに注目をして自画自賛し、大げさに満足した。私すごい、と心の中で何度も言った一年だった。今年もそうしていく。

 

今年もたくさんブログを読みます。毎日の楽しみで日課です。  2017/1/6 ちえ

 

追記/今年もおみくじを引きました。末吉でした。病気は長引くが、焦らずに治療に専念せよ。スムーズに進むことは少ないが、落ち着いて見方を変えると吉、というような事が書いてありました。何かにつけて落ち着いてみようと思います。深呼吸!

my backnumber to lock the door on the inside ジュニア辞書で精いっぱい作った後ろと前の文脈です。タイトルはこんなニュアンスで表したかったです。