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大人になってからアダルトチルドレンを知って、わかったことや気付いたことと、これからのこと。

手帳とノートと同級生と先生 2

(つづき)

 

Iは5年制学校、Aはスーパー超進学校、K、Sは超進学校に進む精鋭だった。

当時のこの4人を思い出してこれを書いているけど、中学生とは思えない懐の深さ、人間性だ。自分で精いっぱいでおかしくないのに、「人に教えてると自分の復習になるんだよ」と言って私が「本当にわかる」まで教えてくれた。

主に数学と化学を教えてもらった。英語はあまりにも時間に余裕がなく、文法は無視、単語を覚えることを課せられた。

自習時間は4人に支えられ、放課後は先生に支えられた。

私が少しできるようになると、みんなが喜んでくれた。それは私にとって不思議な経験で、知らない感情だった。できなかった時には感じなかった、恥ずかしい気持ちになった。だけど嬉しくもなった。この時、Eのことを思い出していた。Eと同じ中学校に行ってたら、私は中学校でも数学を楽しんだかもしれない。もしかしたら進学校を目指すような中学生になってたかもしれない。

だけど、違う中学校に行っていたら、この4人とは出会えてなかったんだ。

 

4人のノートはみんなそれぞれ書き方が違っていた。

それに気づいたのは、プリント問題をしている時に、教科書や過去のノートを参照にして教えてもらっている時だ。

「明日1学期の時のノート持ってきてくれる?」と言われて「持ってない」と言った私に、みんなが自分のノートを持ってきて見せてくれた。

私は先生の書いた黒板の文字をそっくりそのまま写していたけど、4人はそんなことしてなかった。ノートを縦に2分割、3分割に線を引き、矢印や○、四角で文字を並べ、教科書に載ってる部分の板書はしておらず、P○○参照、と書いてあるだけで、あとは黒板を見ている限り、無かったはずの文章や式がそこにはあり、私が5色くらい駆使してカラフルに仕上げたノートとは違い、4人全員2色しか(黒、赤)使ってなかった。

Iにいたっては、全部黒ボールペンで書いている日、全部赤いボールペンで書いている日があった。シャープペンシルが「消すのが面倒」という理由で使いたくないそうだ。間違った時は線で消すと言っていた。そしてボールペンばかりにしてから、間違える事が減ったとも言っていた。そんなことってあるの、、と私はカルチャーショックを受けていたけど、Sが「なるほどそうだよね」と頷いていたのを見て更に驚いたのを覚えている。AとKは「本当は蛍光ペンも使いたいけど、結局どこも重要だから、意味ないと思った」と言う理由で、蛍光ペン引きまくりは主流だった時代に黒、赤のアンダーラインのみ(しかも極稀)のシンプルなノートだった。(文章を四角や丸で囲んで矢印で引っ張り補足?応用?みたいのをよく書いてあった)

 

Eが消しゴムをあんなにたくさん仕舞いこんでいた理由がわかった気がした。

私はEのノートを見ることはなかったけど、きっとEも消したり消さなかったりしてノートを工夫(自分にとって合理的になるように)してたんだ。

それに、物がほとんどなかったあの部屋で、Eの楽しみは使わない消しゴムを見ることだったのかもしれない。きっとEの趣味だった。

小学生の女の子は、誕生会などをすると、プレゼントに可愛い文房具を選ぶ。そうして増えていく使わない消しゴムが、Eにとっては面白かったのかもしれない。私の消しゴムは、いつのまにか消えていたので、消えると新しい消しゴムを買ってもらえるので、消しゴムは消えるものだった。私は貧困の中で、貧相な満足を得るため、物との向き合い方を間違えて覚えていた。(大人になって鬱になって治療の途中で気づき、だいぶよくなった)

 

EのこともIAKSのことも記憶が強烈で、長い時間に感じるけど、実際はたぶん数週間の出来事だ。その数週間が、今の私に伝えてくれることがたくさんある。

助けてくれることだってある。大人になってメモの取り方が変わった。

私は昔、手帳は先の予定を書くものだと思っていた。間違ってないけど、今の私にとってそれは重要ではない。必要な使い方は違った。

「過去、いつ何をしたか」「問題が起きた、どのような問題か、どのように解決したか」それらを思い出すために書く。イレギュラーなトラブルほど、細かく書く。何度も経験できない事は覚えておけないから(ただでさえ記憶力低い)自分が疑問に思ったことも対処法もすべて書くようになった。

そして似たような問題が起きた時、それを見て確認するようになった。過去に疑問に思ったことは今の自分も同じ疑問で躓いていた。過去の自分が書いてくれた対処法が

今の自分を助けてくれる。そしてその方法を教えてくれたのは中3の時の4人だ。

過去のノートを取っておく、定着するまで、確認できるように、処分しない。

私以外の人にとっては当たり前のことかもしれない。でも私にとってはそうじゃなかった。そして当たり前にするところまでできた。

もうだいぶ大人なので、ものすごく出遅れてる感がある。だけど、あの時みたいに恥ずかしい気持ちにはならない。

正しく振り返ることができれば、思い出は今でも助けてくれる。

 

(終わり)

手帳とノートと同級生と先生 1

私はノートの使い方が下手な子供だった。

それは今振り返ればなんだけど、、当時はきれいに書けている自分のノートが好きだった。先生の板書通りの並び、色分け、図形、すべてをきっちりと写していた。

一学期二学期、新しい年度、その度に新しいノートを用意するよう言われ、新しいノートを用意し、繰り返し板書を丁寧に写していた。

ノートを最後まで使い切ったことなど一度もなかった。いつも三分の一くらいページが余る。その余ったページには何も書くことなく放置、いつのまにかどこかに消えてく。(自分で処分した記憶がないので、どこかで失くしてるか家族に捨てられているかだろう)

私はノートが新しくなるのが嬉しかった。文房具だけは買ってもらえたからだ。新しい物を持てる、それが嬉しかった。三分の一余ったノートのことなんてすぐに忘れて、つい先日まで使っていたものなのに、もう二度と使うことはないと思っていたし、実際にそうだった。

小学生の時はそれで「よくできました」がもらえていた。私は小学校を高学年で転校しているのだけど、転校前も転校後も「よくできました」だったけど、テストで100点はおろか70点以上を取ったことは一度もなかった。

6年生の時に衝撃の出会いをした。

私より数か月あとに転校してきたEという女の子。明るくて清潔で上品でピアノを習っていた。すごくお金持ちの家の子なんだろうなと勝手に思っていた。

私の隣の席になったことでEと仲良くなった。小学生は仲良くなるとすぐに家に遊びに行く生き物で、私はEの家に何度か遊びに行った。Eの家は団地だった。

「お金持ちじゃないのにピアノを習っている、、!」と驚いたのを覚えている。Eには一人部屋が与えられていて、いつ突然行っても整理整頓されていた。物が少なく、女の子が好きそうなぬいぐるみなどは一つもなかった。赤いランドセルと、机の上にある組み立て式の紙製の小さな三段引出が唯一女の子っぽかった。

その引出には見覚えがあって、月刊誌りぼんの付録だった。しかも随分と前の号の付録で、その部屋には浮いて見えた。何より、私は過去に同じものを作ったけど、こんな風にはならなかった、もっとぶかぶかでスカスカで引出がうまく引いたり押したりできない状態だった。何も仕舞うことなくいつのまにかどこかに消えていった。

Eはその引出を「とても気に入っている」と言った。何を仕舞っているのか聞いたら、開けて見せてくれた。上段、消しゴム。中段、消しゴム。下段、消しゴム。全段消しゴム。消しゴムボックス。

使いかけの消しゴム、新品の消しゴム、香り付の消しゴムにグループ分けされていて、とてもきれいだった。私はそれまで消しゴムがきれいだなんて一度も思ったことがない。あの時は何がそう思わせるのかわからなかったけど、今なら簡単にわかる。

同じものが同じ場所に整理整頓された状態がきれいだったのだ。

Eは勉強がすごくできた。6年生の算数はEから習ったようなものだった。Eから算数の話を聞くのが好きだった。問題の意味や解き方を教わっているうちに、私は算数で90点を取った。人生最初で最後の90点だった。

Eとは中学校が別れて、私はその後数学で90点を取ることはなかった。

中学3年、推薦入試を失敗した私は、一般入試に向けて勉強をするわけだけど、その時助けてくれたのは先生の他に4人の同級生がいた。

その4人は、近い席、同じ班、ただそれだけの縁で私の世話をするはめになった。Eと別れた中学生の私は、その後また、ただ板書を丁寧に写す人に戻っていたので、ノートはきれいだったが、学習脳は腐っていた。どの教科も50点くらいでぼ~っとしていた。推薦入試が失敗した今、一般入試で点数取れるような脳みそをしていなかった。私本人は勿論だけど、担任の先生はもっと焦ったと思う。同じ受験生である同級生に私の世話係を任命したのだから。よっぽどの事態だ。4人の同級生は誰も嫌な顔せず、引き受けてくれた。推薦を落ちた私を励ましてさえくれた。自分だってこれから入試控えてるのに。基本的に3年3学期は自習が多いので、配られたプリントをこなしながら、各自好きな学習をする。私は「わからなくなったら聞いて」と言われていたので、プリントが配られて10分後には聞いていた。まずは隣の席のIに聞いた。Iは「どこがわからない?」と言うので「問1がわからない」と答えた。

Iの手元にあるプリントは終盤にかかろうとしていた。Iはしばらく考え込んで、「大丈夫か?いや大丈夫じゃない、これはまずい、絶対やばい」みたいなことを言って、Iの後ろを振り返ってAに言った。「机をつけるぞ」

Aは「え?」という顔をしたが私の白紙のプリントを見て「!?」みたいな顔になって、Aの隣のKも「ひぇ!?」となってKの前の席の寝ていたSの背中をバンバン叩いて起こし、給食時間のように机をくっつけて会議が始まった。ちなみにA、K、Sはプリントはとっくに終わり、学校のじゃない問題集をやっていた。

(つづく)

待ってない

カモミールティーは好きじゃないけど

頻繁に飲む時期がある。ティーパック20個分くらいの消費で終わる。

「飲んでおかなければ」と感じて飲む。それが今時季だ。なぜかはわからないけど、飲む。寝る前に飲む。「もう飲まなくていい」と感じて飲むのをやめる。数日の出来事だ。

今夜は飲みたくならないから、もう終わったんだろう。

私の体の中で何かがそう始まってそう終わった。

 

まだ春は来ない。

 

 

笑ってくれてありがとう

期限が決められてる決断しなきゃいけないこと

期限がなくて選択しなくちゃいけないこと

私の頭が、ものすごく冴え渡っている時と、ものすごく鈍っている時があるのを自覚していて、ものすごく冴え渡っていなくてもいいから、せめて少しまともな回転をしてくれる時に考えて決められるように、少しずつメモを残していかないと(明日の自分のために)、せっかく考えて決めたことを忘れたみたいにまた1からぐるぐると同じこと考え始める。(大体ろくな方向に行かない答えしか出せない/正確には答えですらない)

 

今、私が直面している些細な問題はひとつではなくて、別々の些細な問題が幾重にもなっていて、グループにできる問題と、全く関係ない独立した問題を分けて、いっぺんに考えないようにする訓練が必要だと思った。

 

先日、人と話す機会があって、違う物事の会話の途中から、ふいに私の思考の癖のことについて指摘された。(注意ではない、「自覚ある?」って問いみたいな)

その人が言うには、私は一度にたくさんのことを同時進行で考えすぎている、ということだった。

会話の中でそんな風になってるとは、、全く自覚がなかった。

 

たとえば、夕食のメニューのレパートリーについての会話をしている時、私は自分のレパートリーの事を考えている。

その時に明日の朝食と夕食の事も考えていて、子供のお弁当の中身を考えていて、好きな音楽の事も考えていて、買い出しに行かなきゃいけない食材の事も考えていて、奨学金の仕組みの事も考えていて、自分の将来(1年後2年後のことではなく、10年後)の事も考えている。

そして目の前にいる人の夕食のレパートリーの話を聞いている時に、一度だけ見たことがあるその人の家のキッチンの事を思い出している。

食材の話に触れた瞬間にエンゲル係数を勝手に想像し、私はもう少し積極的に食事について考えなきゃいけないよなぁと思って、去年本屋で見かけた料理本を思い出す。

価格もタイトルも思い出せなくて、表紙だけ覚えている。今度また本屋に行ったときに探してみよう、と決意した直後に、その本を買うお金で食材買った方がいいんじゃないかと迷う。

 

このようなことが、「ちえちゃんち今日の夕食何にするの?」と言われた瞬間に、頭の中を駆け巡る。そしてしばらくうんうん言った後、「全然決めれない、カレーかな」と答える。

先日はそれでそっか~と終わらず、「私と話してるとき、何考えてた?」と聞かれたので、上記の事を答えたら、大笑いされた。信じられない、なぜ~!とその人は笑っていた。それで、普通は(あくまでもその人の言うところでは)会話の間にそんなに沢山の、しかも関係のない事まで考えないと言うので、私は驚いた。

そしてその癖を自覚したので、ここ数日は訓練している。

別々に考えること、決めること、決めたことを、メモしてから次の事を考えるようにしている。

癖なので、すぐには治らない。すぐには無理だけど、楽しいから続けられる。

考えてから決めるまでの時間が短くなって、楽に感じるからだと思う。

頑張って続けてみよう。

曖昧な記憶の中から心地よい時間だけ取り出して思い出にした

腐っても分解されて朽ちてくれない不気味な感情のなり損ないみたいな確かな事実は

どこにしまっても同じだった 同じだったから もう

大切にするのは難しかったけど大切だったよ

 

途中まで一緒に歩いた

たったそれだけの時間に沢山のことがあったなんて

信じられないけど 答え合わせもできないけど どうせ間違いだらけだし

それでも編み上げたもの広げられたら だいたい 同じだよ

きっとそうだよ

 

 

 

 

 

 

 

おばあちゃんから貰った手紙

何歳頃だったか忘れてしまったけど、祖母と手紙のやり取りをしたことがある。

私は「おばあちゃんお元気ですか」と書いた。他の内容は忘れてしまった。

祖母からの返事が届いて、手紙の内容に衝撃を受けた事だけ覚えている。

 

おばあちゃんがくれた手紙の文章は、ひらがなとカタカナが多く、当たり前のように縦書きで、「○○しています」の「ます」は「〼」になっていた。

当時おばあちゃんは70歳くらいだったと思う。

内容に、ちえちゃんは字がとてもジョウズですね。ばあちゃんはあまり字がかけないのでハズカシイですがちえちゃんが手紙をくれたのうれしかったのでお返じしますね。

ちえちゃんは学校できちんとべんきょうしておりこうさんですね。とてもかしこくてばあちゃんのじまんの孫です。

 

このような内容でした。あと、同封した花の絵を喜んでくれました。

祖母は小卒で、小学校に行きながら畑の仕事も手伝っていたらしく、文字の読み書きも小学生低学年レベルくらいで、数学は全くわからなく、簡単な足し算と引き算と掛け算ができるくらいだった。

当時の私は、おばあちゃんはあんなに美味しいご飯を作れるのに、勉強が全然出来ないのに大人になってたのが不思議だった。

本を読んでみたいけれど、読めない字が多すぎるから楽しめないと言っていた。

(新聞の四コマ漫画は楽しいと言っていた)

私が大人になった今なら、字を読まなくても面白い本を探してあげられたのにな、と思う。

祖母はもう随分前に亡くなったのだけど、私の両親が離婚をしていたので、父方の祖母の最期はいつだったのかわからない。

お墓も知らないままだ。

手紙も無くしてしまった。

でもおばあちゃんは怒らない。きっと私を好きだから怒らない。田舎くさい身なりで、いつも適当なおばあちゃんだった。でもお料理はとても上手だった。そして会う時にはいつも言っていた。

ちえちゃん戦争はいけないよ、何があっても戦争だけはいけないんだからね、って。

勉強はできなかったけど、祖母は大切なことをたくさん知っていたし、生きる方法も料理の仕方も知っていた。私の母は料理が下手だったので、祖母の作る普通の家庭料理はご馳走に思えていた。こんなに凄いことできる人が、子供の私に言ったんだった。

ちえちゃん勉強はちゃんとするんだよ、悪い人に騙されないように、たくさん勉強するんだよ。

祖母から貰った手紙の事を思い出して、勉強の意味は万人に共通するものではなくて、個人が意味を持ってすればいいんだと、気づいた夜でした。

 

おばあちゃんお元気ですか。

自分で掘った落とし穴の場所を覚えていられるか

他人の悪意に気づいてしまった瞬間があります。

他人Bが他人Aに向けた悪意なので、私は全く無関係の立場です。だから気づいたのかもしれません。

その時、こんなバカみたいな罠にひっかかる人いるのかなぁと思って見てました。「まんまと」ということってこういう事なのか、というくらいまんまと引っかかっていました。華麗に、見事に、美しくバカ丸出しの状態を確認したとき、唖然としました。

善意を装った悪意というものはひとつのミッションのように、しっかりと進行できるように、確実に達成するために、シンプルになるんだな、、と思いました。

 

ふと、あれは悪意があってのことだったのだろうか、と考えてみました。

本当の善意でしていたなら、ただの親切な人だ。だけど私にはどうしてもそう見えなかった。そもそもに他人Bには、他人をコントロールしたいという欲求みたいなものが滲んで見えていた。それは私の勘違いかもしれないし、事実かもしれない。

本当のところはどうであれ、他人をコントロールすることが少し上手だなと思っていた。「あの人にこういう風に動いてほしいな」と思って「こういう風に動いてください」と直接言うのではなく、そういう風に動くよう仕向けるのがうまい。

「第三者」には、まるで「あの人」が「自主的に動いた」ように見えるようにするのが他人Bは少しだけ上手だ。

でもきっと、もうすぐそれがバレると思う。他人Aにバレるのではなく、それらを見ている第三者が気づく。そしてその第三者達は、気づいたところで何もしないだろう。

第三者達も私と同じく等しく他人なのだ。

 

自分で掘った落とし穴の場所は、いくつ掘ろうが、覚えていれば、自分自身は落ちないだろう。だけど、自分以外の人が掘った落とし穴の場所は知らないでしょう。

それは、今日掘ってるのかもしれないし、大昔に掘ってあったものかもしれない。掘った本人が忘れてる廃落とし穴だってあるだろう。

そういうのを、軽視してると、まさかが起こる。掘ったことを忘れた本人と一緒に落ちるかもしれない。

 

私は随分と前の事だけど、ホステスとして働いていた時期がある。

お酒はあまり好きじゃなかった。だけど仕事なので飲んでいた。

 自宅で母親が母親の友人とお酒を飲んでいた時、私にもお酒を勧めてきた。友人も勧めてきた。もちろんよかれと思って。楽しいお酒を一杯、乾杯、程度のものだった。

私は断固拒否した。「私にとって酒はお金を貰って飲むものだから」そう言って断った。一度強く拒絶するとしつこくはされない。

数年後、母もその友人もアル中になった。この二人はその後一度も病院に行ってない。

アル中だと思ってないからだ。

私の母はその混沌の中死んだが、友人はまだ生きている。おそらく今も、ハンバーガーを頼んだらコーラを飲む若者のように、酒を飲んでいるんだと思う。

アル中末期の患者の脳の写真見たことないのだろうか。

私はない。でも末期の人は見たことも話したこともあるが、もう何も通じ合えない異世界の人だった。みりん飲んだらお終いだね。

 

追記(2/5)いくつか読んでみて参考になったので。今日付けのランキング一位記事の内容も、ざくっとしててわかりやすかったです。

 

www.skincare-univ.com

 

my backnumber to lock the door on the inside ジュニア辞書で精いっぱい作った後ろと前の文脈です。タイトルはこんなニュアンスで表したかったです。