村上春樹の電話ボックスに脚注がつく日
私が小説を読むようになったきっかけは江戸川乱歩の作品で、確か小学6年生頃だったと思う。長い夏休み、近くの図書館に通った。
図書館に通い始めたのは、本を読むためではなかった。自宅では宿題ができなかったからだ。自宅にいると、家の事をしなくてはならないからだ。
自宅で隙間時間を見つけてするより、図書館に2日間くらい通って済まそうと思っていた。
そのついでに読書感想文の本を選ぼうとしていた。自宅には当時流行ってい折原みとの小説(今でいうライトノベルの手前のような存在だったと思う。そもそも折原みとは小説家ではなく漫画家だったはず)しかなくて、当時の担任がその読書感想文は認めないと言ったから、別の作品を探さなくてはならなかった。
私はその頃、長い文章を読むのは苦痛であり面白くないと思っていた。だから1円たりとも小説にお金を使いたくなかった。
宿題を半分くらいまで終わらせて、もうどんなに粘っても、それ以上やる気が出ないので、私は本棚を眺めていた。宿題の続きをすることも、家に帰ることもしたくなかった。仕方なく一番目立つ背帯の本を手に取った。「一番目立った」のは、今思えば気のせいかもしれない。その当時の私が、無意識に興味を示した結果が目立たせた背帯だったんだろう。だって、それだけが目立つにはあまりにも本が多すぎた。
なんて恐ろしい話だ、私は図書館にあった江戸川乱歩の作品をほぼ読み終えたのは中学1年生が終わる頃だった。自分の目に映る世界が変わっていった。
結局小学6年生の夏休みにどんな本の読書感想文を書いたかは覚えていない。
一寸法師の感想だけは書いてはいけないと思ったのは覚えている。こんな恐ろしい話の感想は書けない、ではなくて、感想を書いては怒られる、と思ったのだ。
だって面白いと思ってしまったから。とても面白かったから。
中学1年生の読書感想文は吉本ばななのTSUGUMIを選んだ。
ものすごく適当に選んだ。表紙が美しいと思った本を選んだ。吉本ばななを知らなかった。だから中1の私が選んだのはタイトルでも作者でもなく、絵を選んだことになる。
面白かったが、江戸川乱歩を読んだ時のような気持ちにはならなかった。それでも感想文を書いた。何かの賞をもらった。2年生の時も適当に何かを選んで適当に書いて何かの賞をもらった。
3年生の時には読書感想文は絶対提出ではなくなっていて、私は一寸法師の感想文を書いた。とても恐ろしくて、とても面白かったと書いた。感想文は提出しなかった。
高校生の頃、村上春樹のノルウェイの森を上巻だけ読んだ。高校生の私にはさっぱわからなかった。主人公の男の動向全てが意味不明すぎて不愉快になった。出てくる女たちに意味不明さや不快感を感じなかったのだから、当時の自分の情緒不安定さがわかって少し笑える。
高校を卒業して最初の夏に下巻を読んだ。上巻の内容はすっかり忘れていたけど、下巻を読んで思い出せた。それってすごいことだ。
16歳の私は、主人公の男が意味不明で不愉快だと感じていた。19歳の私は女達の方が意味不明で、でも、可哀そうだと感じた。主人公の男に感じていた意味不明さはなくなっていたけど、なんて弱くてずるい男なんだと思った。
そして電話ボックスが特別な意味を持った。あの透明な扉を開けて居座る空間に公共性はない。それまでの自分が利用していた空間とは別のものになった。
あの頃、知らなかったけど、あの空間は私たちが思うよりももっとプライベートなものだった。透明で外側から丸見えの縦長のガラスの箱、そこに入って私たちは笑ったり別れ話したりしていた。
そんなただの記憶は、作品が新しく刷り直されるたび、時代を過ぎてしまいすぎて、あともう少ししてしまえば、説明文がつくようになるんだろうか。
読書感想文に抜粋されてしまうような、存在になって、クラムボンみたいに。
帰る場所はないから作る
去年は10月頃からずうっと調子が悪かった。
今も万全ではないけれど、昨日よりはマシだとわかると気が楽になる。私はマシかマシじゃないか程度の差で今日を生きる。本当はもっと丁寧な暮らしをしたいけど、そんなことを現実にしようとすれば直ぐさま破綻するだろう。
今日の私には昨日までの分の人生しかないから、突然丁寧にはなれない、そのことを受け入れながら生きよう。
私には「実家」という場所がない。だからお正月やお盆に「帰省する」という感覚は随分前からない。そして自分が困ったことになった時などに身を寄せる場所もない。
「友人」を頼れるか頼れないかという話ではなくて、もっと単純な「実家に帰る」という行為についての話。
自分が生まれてから今日までずっと同じ家に親が住んでいる、自分が巣立ったとして、自分がある程度大人になるほど時間が経っても、親はいつもそこに住んでいる、それが奇跡のように思える。
子供が成長する段階で「引っ越しが頻繁である」と、人格形成に大きく関わるというのを何かで読んだ。アダルトチルドレンである私ももれなくそう思う。
私は今までの人生で15回以上引っ越しをしている。私の記憶がある限りの回数なので、もしかしたらもっと多いのかもしれない。内3回は私自身が大人になってからの単独行為で、それ以外が親の都合だった。僅かに残る記憶の中に「懐かしいと思える場所、景色」は一つもない。何もかもが曖昧で、見覚えのある住所という数字でしかない。
今住んでいる町が一番長い時間を過ごした。私が病気を発症した後、病気の発症の原因の一つであった人物から逃げるために選んだ場所だ。(私自身にうつ病になりやすい要素もあった)
人生の中で一番長く住んでいる。私は初めて住まいに愛着を感じている。
厳密に言うと愛着とは違うかもしれない。とても安心する、感じ。
長く住めば壁紙が傷むことやフローリングが剥げること、備え付けの備品が壊れたりすること、それを直して使うこと、そういうのを知らなかった。
あくまで賃貸のアパートだし、、という生活の中で、自分で部屋をメンテナンスをするという行為などする間もなく、引っ越しをしていたからだ。
もう数年後に私の子供は巣立つ。私は「おかえり」という場所を作る。
私にとっては奇跡で、自分には関係のないお伽話の中のような場所だったけど、子供にとっては普通のことであるように、同じ場所で過ごしていけるようにしたいと思う。
(子供自身はそんなこと望んでないと思う、、)
去年の1月に書いた記事に自分のために生きたい、と書いた。目標は達成されたように感じる。調子を崩しても、それを悪化させるような出来事は回避できた。
今年もさらに、自分のために生きたい。避けられない変化を、怖がってもいいから受け入れていきたい。
去年調子を崩してから、私は意識的に生活のほぼすべてを目標達成型にした。「しなくてはならないこと」を「したくない時」にしたくない理由は数えきれないほどある。
それ全部を、そうだよね、したくないよね、と自問自答形式にして認めてから、どんな中間があろうとも、結果「しなくてはならないことを、することができた」に重きを置いた。どんな途中(信じられないくらい恥ずかしい失敗をしても、他人に対して憎しみが生まれても)を経てもいいから「できた」ことに注目をして自画自賛し、大げさに満足した。私すごい、と心の中で何度も言った一年だった。今年もそうしていく。
今年もたくさんブログを読みます。毎日の楽しみで日課です。 2017/1/6 ちえ
追記/今年もおみくじを引きました。末吉でした。病気は長引くが、焦らずに治療に専念せよ。スムーズに進むことは少ないが、落ち着いて見方を変えると吉、というような事が書いてありました。何かにつけて落ち着いてみようと思います。深呼吸!
忘れそうになること
ボールペンで書かなきゃいけない時があって、時々書く文字列が、忘れそうで忘れないでいられるギリギリの記憶力、記憶力の問題かな?
お母さんとかお姉ちゃんとかで呼ばれてて、私、自分の名前忘れそうになります。
書類に書くのも、最近では子供の名前を書くことが多くて、保護者の欄に自分の名前を書くんだけど、間違って子供の名前書いてしまう。
それでもまあ、書くわけだけど、人生の中で何回も書いたはずの自分の名前が、どうも他人行儀に感じて、「これで合ってたかな」なんて思ったりもして、自分宛に届いた手紙なんかを確認してしまうこともある。
私が最後に下の名前で呼ばれたのはいつだったのかな、思い出せないくらいには前なんだろうな。
誰に呼ばれたんだろうな?まさかそれからしばらく呼ばれることはなくなるなんて思ってもみなかったから、ちゃんと聞いておけばよかったな、私の名前が、誰かの声で発音される音。
あ、先月、薬局で呼ばれた、そういえば月に一回呼ばれてる。
なるほど、これはとてもありがたいことだ。
進路指導の変更、誰のために、そして何のために
広島中3自殺、進路指導の変更が要因…第三者委 : ニュース : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
ずっと考えていた。昨日報道があった。何も戻らない。
けれど実証した側の大人は最大限稼働したように感じた。
文中にあった「コミュニケーションの不足」とは、(指導者と生徒の)両者にあるような印象を受ける言葉だけど、私の感覚で言えば大人側の問題でしかない。両者の問題ではない、というのが私の感覚だ。
「問題が起きた時に、最善の選択をしようとする姿勢で、取り組む人」は存在する。実在する。
対人問題においても、正解不正解は別として、対等な話し合いができるようバランスを計ってくれる人がいる。他人の話をよく聞ける人だ。そしてそれは難しい。
だけどできる。忍耐と根気が必要だけど、できる。忍耐と根気と、真摯に取り組む気持ちはあるが、難しく感じる、できない、と思う人がいたとしたら、その人に足りないのは忍耐や根気や気持ちではなく、時間と協力者が足りてないのだと思う。
それは一人ではどうしようもないことなので、早急にそれに足りる方法や形ができればいいと願う。
この新聞記事では全てを知ることはできない。テレビニュースも見た。
嘘がないと信じた上で全部読んでも上澄みしかわからない。だけど私は事後が報道されて少し泣いた。まだ検証が続いていたこと、それは少なからず私の考えていた疑問や不安に近く触れていたこと、そして今後の進路指導相談に関係していくと思われること、事実を共有し認め問題を解決しようとする姿勢が見えた、から。
だけどもう戻らない。沢山のものが戻らない。私はずっと悲しいし、ずっと悲しいままでいる自分を望む。なぜこんなに悲しいのか、明確な答えはいらないと決めたので、私は今後もこのことをずっと考えるし、悲しむ。(私以外の人に「確かに残念な事だったけど、他人のことで何をそんなに悲しむのか」と問われても、そんな事を聞いてくる人が納得するような答えなどこの世界にはない)
「どうして?」の続きはわからない
「わからない」
いきつくところ、そうなる。理由があれば、それなら仕方ないね、と言って見送れるものではないから、わかったようなことは言えない。(わかるような心境になったり、思ったことがあるとしても)
いまだに、口をついて出そうになってしまう気持ちがある。
生涯消えない気持ちだと思う。色や形を変えて、ずっとある気持ち、忘れないで、いかないで、今ここにいてくれたら、笑った?
私の母の死因について、子供には「事故」と伝えている。他、伝えなければいけない関係の他人にも同様事故と伝えている。私の兄弟とも「そういうことにしよう」と約束めいた話をした。
私は、本当の死因を話すことが恥ずかしいのではない。真実を伝えられた他人が「なぜ?」と思う、あるいはそう聞かざるをえない状況が嫌だからだ。遺書はなかった。決定的な理由などわからない。それに、自ら死なない者にとって、自ら死を選択した者の気持ちや理由など、理解できないしする気もないのだ。
「そんなことで」「何もしななくても」「助けてと言えばよかったのに」
そんなこと、をそんなことではないと聞いてあげられただろうか。助けてと言われたら故人が安心にどっぷりと浸れるような救いを提供できただろうか。死ななくても良いというのは生きるべきだと説得することだろうか、できるだろうか。
その説得を受け入れられない状態である自分を責める故人の悲しみや苦しみ、疲労はどれくらいのものだろう。
自らの死を選択したことがない人には、到底想像できない。
想像できない場所にいる、ということに気づいてあげられなかった、残された者の無念も、気づいてはいたけど、どうすることもできなかった者の無念は、故人の生きた証を、いたるところに見つけるようになる。仕草のように、癖のように、生きた証を探してしまう。見つけてしまう。
それは悪いことでも良いことでもない。癖が一つ、増えただけだ。その癖が、鼻につくからやめろという人もいる。気にならない人もいる。気づいても気づかないふりをする人もいる。それだけだ。
忘れないで、そう思う。でも、忘れないことは無理だ。残された者は生きていくから、残された日々を「この日まで」とは知らずに生きていくから、記憶が増えていくから。
忘れていくことに苦しみを感じる人もいる。でも生きていくと、忘れていくのは故人の事だけじゃない。自分の昔のことだって忘れてしまう。沢山の事を忘れて生きていく。そして、思い出すこともできる。
音や匂いが、しっかりと結びつけた記憶がある。それは自分が意識して結びつけたものではないけど、リンクしてずるずると蘇る記憶がある。「その時」が来る。
それまでは忘れててもいいのだと、思うようになったのは最近の事で、そんな自分を責めなくなったのも最近だ。
私は今、匿名でブログに気持ちを吐き出している。この行為全てが自分自身のためだ。
故人を慈しむ気持ちで書いてるわけじゃない。忘れたくなくて書いてるわけじゃない。自分自身の気持ちの整理のためだけに書いている。
ただ、時期を間違えば、呪うような恨みつらみの塊であった頃であれば、その時の矛先は決まっていたので、最低なことをしていたかもしれない。
矛先にいた人物たちは情報弱者だったので、それをいいことに社会的窮地に追い込んだかもしれない。母の死が、世界の隅っこで起きた些細な事実なだけなら、矛先にいた人物の社会的窮地だって、些細な事実にしかならないだろうと考えていた時期があった。
それをしなかったのは、自分の子供との生活があったからだ。呪いに生きる人生は一人じゃないとできないと諦めた。
ということは、私は一人であったなら、呪いに生きたんだなと改めて思う。
賢いか賢くないかで言えば、全然賢くないし、愚か極まりない。私という人間はそういうものだった。
今日の私を作ったのは、単調で平坦な日々を過ごしたいという希望と、そしてその難しさを教えてくれた自分の病気だった。
病気により、体力も意思決定能力もなかった私は、今日まで私を生かした。
沈殿
上澄みは透明度を増している
時間を正しく過ごしていれば 重いものから沈んでいく
順に
見上げたら空は光って見えた 屈折した光は奥底まで照らした
知らないルールに従って たしかに届いた 辟易した過去からの光
あらわになった足元は泥水に沈んでいた 選ばれし重い泥
ただそれより重かっただけの泥に纏わりつかれて見ていた どこからくるのかを
なにもかもをしらずにここに溜まってしまった
ぬるり ざらり うらぎり さえぎり ひかり 風もないこの混沌にひらり手のひらを
返して持ち去ったものすべて返して どうにも許せない
我が物のようにひけらかしてくれるな それは私の重い泥だ
時間を捨てて ここに落ちてくるまで 待っていたんだ
大切なものなんだ
くだらないといって 見せびらかすな