目覚めの端、夢のさなかに印をつけた、また会えるように
白い長い紙の端を正方形になるように切り
鶴を折る
今年は一羽、大きめの鶴
今年もなにもない 来年もなにもない ずっとなにもない
何もない時間をそのまますとんと飲み込めるように練習した
随分大人になってしまった
やっと願いではなく 祈りでもなく 日常でもなく
傷を傷として、見せびらかしはしないけど
隠すこともしないで、いけたら、と
そうしたら、と
傍観者の内心でしかない
悲しい事がたくさんあった。
そのほとんどがこの画面の向こう側で起きていることで、私の私生活の表面的なものは何も起きていなかったように見える。
だけど実際にこの世界で起きていることで、私のこの場所から、地続きで現実の出来事だった。実感のないまま、世界は回る。私がいるこの場所も、画面の向こう側も、どちらも変わらず世界の一部だ。
自分が無力を感じすぎると、無力の力に覆い尽くされて、奪われて、強靭な無力に同化してしまう。
だから私は無力を感じないようにしている。意識的に感じないようにしている。
数年のメタ認知を経て、できるようになってきている。
私の日々や努力をないがしろにしてきた人物を張り倒すくらいのことなら、今は容易い。
私の思いや人情に付け込んで、搾取し続けた「常識人」の戯言は素手で掴んで潰せる。
それくらいには力を取り戻した。
正しさなんてわからない。私は正しい事をするためだけに生きて無い。
生まれたから死ぬまで生きてみる。その間に、良いことも悪いことも起きる。
自分でどうにかできることもあるし、できないこともある。多分、悪い事のほとんどが、自分にどうにかできることじゃないと思ってる。
悪いことだらけの悲しいだけの人生を送りたいと望んでる人なんて、稀有だ。
もしかしたら間違ったのかもしれない、もしかしたら努力しなかったのかもしれない、怠ったのかもしれない、フォローしなかったのかもしれない、頼れる人がいなかっただけかもしれない、知らなかったのかもしれない、信じていたのかもしれない、裏切られたのかもしれない、能力がなかったのかもしれない、かもしれないがいくらでも湧き出るほどに、理由なんて後からいくつも生まれる。
だからといって、私は悪いことだらけの人生は嫌だ。
嫌な事、悪い事、悲しい事が起きた時に、「それには意味や理由があるんだよ」みたいに、良いことに考えるよう捻じ曲げた解釈をするのはもっと嫌だ。死にたくなるくらい嫌だ。
だから、私は強くならなきゃいけない。自分だけの為に、自分だけがわかる分だけ、強くならなきゃいけない。
嫌なこと、悪いこと、悲しいことが起きた時に、それをそのまま受け入れて、怒ったり泣いたりできるように、自分の感情をねじ伏せて笑う事がないように、無力にはならない。
私はHagexさんが好きだった。
私だった私と私になった私、だから何?
私の周り、記憶のねつ造がすごい。
自分の方が間違って覚えてるんじゃないかって自分を疑うほどにはすごい。
だけど私には保存してあるメールがあるので、やはり間違っていない。
時間が経って、気持ちの変化はあるでしょ、と言われれば、ある。
私の記憶の中にいる私が酷い行いをしたことも知っている。
だから何?という気持ちだ。
昔の私はこの「だから何?」が出来なかった。
それで自分をないがしろにした。
時間が経って、すべてを水に流せる日が来るというのはあるのかもしれない。
実際あるんだろう。
私にとって今はそうじゃない。それに私はすべて水に流すことはできない。
「そういうこともあったし忘れないよ」という確執を残したまま、新しい関係が築けたらとは思う。
怒る、憎む、というのはとてもエネルギーがいる。疲れるのだ。
本当はやめてしまいたいと思う日だってある。
その諦めた私は、前の自分のようにはならない、元に戻らないだろうとも思う。
都合よくサンドバッグにはならないし、聞き捨てならぬ暴言をかまされた時には突っ込む。倍返しかもしれない。
でも今はしたくない。
私は「友人」だと思っていた人と距離を取ることで、感情や体調が安定してきた。
今は理解者だけが絶妙な距離でいてくれる。とても、ちょうどよい。
先日、道端で知らない子供と知らない女性と話す機会があった。
その二人は他人で、子供が迷子だという。
泣いてる子供に何とか情報を聞き出そうと、女性はあの手この手で頑張っていた。
学校がわかったら、家までは帰れるかと聞いたら、かえれる!と言うので、その子供の学校まで一緒に行こうということになって(近所に学校はひとつしかない)、知らない3人で並んで歩いた。
10分もなかったと思う。その間他愛のない話をした。
さっきまで漆黒の闇の住人みたいな顔をしていた子供が、知ってる道に出た瞬間にわかった!赤!と言って遠くを指をさした。その方向にはマンションが並んでて、赤い物なんてないと思ったけど、「ほら!」と見ろと言うのでその子の背丈ほどにしゃがんで見たら、マンションとマンションの隙間に、弁当屋の赤い看板の上の方が少しだけ見えていた。私は本当だ、と言った。知らない女性も、ああーと感嘆した様子だった。
すごいね、いつもあの赤、目印にしてるの?と聞くと、「うん!」と言って、子供はぴょんぴょん飛び跳ねていた。
学校の窓口で事情を話し、その子供とはさよならをした。
知らない女性は、あ~良かった、じゃあ私はこれからバイト、こっちだから、と言ってお辞儀をして、私も、良かったですね、私は今来た道を戻ります、と言ってお辞儀をして別れた。
他人と話すのは実に数年ぶりで、とても新鮮だった。
今ここで書こうとするまで忘れていたけど、これくらいの人との関わりは丁度良い。
「人間関係」が面倒くさいんだな、と改めて思いました。
これから先出会う人には、今の私で良いんだなと心に落ちた一日でした。
▽entropy△
しんどい。しんどいんだと思う。
ここ1~2年は自分のメンタルの行方みたいの理解できてる気でいた。
昨日から、右側の頬の痙攣が起きる。すぐ治まるけど、ちょっと焦る。
離婚寸前の婚姻当時に顔左側の色んなところが痙攣して、手で押さえてないと気になって何もできなくなった事があったから、それを思うと、他の余計な記憶まで蘇る。
私を責める私のことを、今の私は許してはいないが、もう責めてはいない。
その時々の「限界」があるのだ。
今の私にとって容易いことも、当時の私には無理難題だった。
だから、きっと今の私もそう。
今の私は限界を感じるけど、来週の私には容易いことになって可能性がある。
いや…来月かもしれないし、来年かもしれないけど、とにかく今から先の自分に僅かな期待をする。
今日は痙攣を手で押さえることはなかった。
糸と針を持って、布と布とを繋いで何にもならない物を作っていた。
(出来栄えはともかく、愛着の湧く袋が完成しました)
明日は絵を描く。
ずっと色んなものを見ていた。私の中にあるものは私が知ってる物しかないから、知らない物を知ろうとして、望遠鏡をまた担いだ。
担がないけれども…(持ってないし)
でもあながち、そんな感じで、見ようとして見ていた。
結局は見たいものしか見れないけど、描くために見ていた。
タールみたいにねっとりとした自分の中身も見えてしまった。
存在それ自体は知っていたけど、タイミングなんてお構いなしでちらつくものなんだなと再確認する。
面白いものだな、なんて思わなかった。昔の私に教えてあげたい。
大丈夫だよって。
グラデーションとパレット
色彩について、私は考えることが多い。
それは、私が、色づいている全てのものに興味があるからだ。
人工的にデザインされた物、自然界にその姿で存在する物、再現された物、記憶の中にあったような気がするもの、空、反射、透明とされる場所、タイル、落書き、知らないもの、すべてに。どうしてだろう?と理由を探していた頃もあったけど、今はそれはしない。見つからなかった。
ひとつ、気づいたのは、自分にとって心地よい色の組み合わせが在るということ。
それを眺めていると穏やかな気分になったり、思う存分悲しんだりできるということ。
私にとって、色とはそういう効果を示す存在。
意図して色の効果を使い、自分の欲しい世界を作ろうとする時がある。
部屋にある家具や皿、コップ、裁縫に使う生地、糸、手帳に走らせるペンの先から紡ぐ文字に、私は色を付ける。しっくりくるように、色を使う。
時々絵を描く。
15年間ほどかけて集めた絵の具を、クッキーの空き缶にしまっている。
絵の具は、用事のために出かけた先の文房具屋で1本、2本を選んで買う。
額にして300円~400円くらいになる。
それらをコツコツと空き缶に足していく。とても大切なものになってる。
私にとってはジュエリーケースのようなものなのだ。
絵の具の色は、いつまでも同じ色が売ってるわけではなく、自分の思ってなかったタイミングで販売終了カラーになってしまうことがある。
もう同じ絵具を作れる原料がなくなってしまうのだ。
そのことを知った時は、気に入った色は2本買うようになった。
絵の具は、私にとって貴重で、他人にとっては貴重じゃない人がザラにいることなんてわかっている。
だけどやっぱり、絵の具を乱暴に雑に無駄に使う人を見かけると、悲しくなる。
(自分のを使われたわけじゃないのに)
絵の具がどうやって作られているか、知っているのかな?とか考えてしまう。
水を使って、もう少し丁寧に使えばいいのに、、と思ってしまう絵を見た。
筆も、きちんと洗っているのかな、とか、パレットに残った絵の具、ラップ巻いて空気抜いて乾かないようにしたら、まだもう少し、使えるのに、とか考えてしまう。
やっぱり、ひとはひとそれぞれあるだよねーと頭ではわかってても、自分が大切にしてるものを乱雑に扱う人を見るのは辛いものがあるな。
そういうの、見ないようにしよう。
私は、私の空き缶の中の色を使って、好きな線を引こう。
今年の夏までには、トイレに飾る絵を描きたい。あ、絵と言っても、色を組み合わせた何らかの形になるだけなんだけども。
青を描きたいです。
楽しみ。
/ May I help you / I stay by your side / I believe you with me /
自分事じゃないことで少し落ち込んでいて、たったひとつの事実を知ったことで色々考えていた。
憔悴はしていない。
思ったより衝撃を受けて、ショックだった、それだけ。
私は出来ない事の方が多いし、体力スタミナがない。最近は筋トレをしている。
それは病気による無気力な日常がもたらす体力不足だけど、それに加え歳を重ねている。健康な人だって筋力は落ちていくし、体力も弱くなっていく。
ペットボトルを200回持ち上げる日々を過ごしているけど、なぜかわからないが全く筋肉になってくれない。持ち上げ方(負担のかけ方)が間違っているのかもしれない。
そんなこんなな、適当な生活を送りつつ、幸せを感じている。
ここ数日取り組んでいた「しなければならないこと」も無事終わった。
とても疲れたけど、「達成できた」という解放感の方が強くて、燃え尽症候群にならずに済んでいる。
いたって平穏な日々だ。
こんなことをこんな風にしかできない、こんな生活でも、安息を感じて時々怖くなる。
こんなに幸せでよいのだろうかという馬鹿な呪いが身体の真ん中をすり抜けていく。
良いに決まっているのである。
だから、私には無関係なことを聞いて知ってショックを受けてしまっても、私を保つことが大前提で、考えて行こうと思う。
いつか、こんな私にでも手伝えることがあるのかもしれないから、今日もペットボトルを持ち上げた。
手伝ってほしい、と言われたとしての話だけど。
やっぱり自分にとって、勉強は大切だなと思った一日でした。
困ったときに、分解して特定して解決に向かう計画を立てる能力は、無いよりあった方がいいから。
自分のできることをしよう。