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大人になってからアダルトチルドレンを知って、わかったことや気付いたことと、これからのこと。

頭の中の色付きレイヤー

4色の付箋だ。

大きめのサイズの付箋に書いたものから適当に貼りつける。

新しいノートに貼りつけていく。

一度貼りつけた付箋を並べ替えていく。

手順を確認する、タイムリミットのあるものに日付を書き足しながら、また並べ替える。

決定したスケジュールを隣のページのノートに清書する。

出来る限り箇条書きに直す。余白を探す。

トラブルシューティングをする。あまり上手にできない。だから余白を確保しておく。

修正が必要になった時は、丸一日あれば大丈夫だと言い聞かせる。

きっと大丈夫だと言い聞かせる。

 

だってできる事しかしていない。

出来ない事はしていない。ただ私は最近頑張っている。

頑張ってしまうと、不安になる。細部まで気になりだす。それをやめることにした。

誰もそれを要求していない。

足りないものがあればその時に補えばいいだけだ。どうしてこんなに簡単なことを受け入れられなかったんだろう。

悪い癖だと思った。

 

wish

私はもう随分大人で、振り返ればそれなりの思い出もある。

日々の生活の中で、過去の出来事を思い出したりする。ふと目にした景色や物に、もう会わない人を思い出したりする。

その記憶の中のその人たちは、その時のままの風貌をしているので、それが過去の事だとしっかりわかる。

その人たちも私と同じように歳を重ねている。大人になっているだろう。

 

20歳の時、散り散りになった中学校時代のクラスメイトに連絡を取り、小さなクラス会を開いた。40人クラスだったけど、30人に連絡がついて、20人が参加してくれた。

私は20歳になってもよく遊んでいた同級生2人と協力して、幹事のようなことをした。

後でわかったことだけど、私はどうやら中学校クラスの幹事として登録して卒業していたらしい。そんなことを責任感を持って覚えているほど賢くなかった。

結果的に見れば自費で連絡を取り20人集められたのは良い仕事をしたと思う。

当日は、15歳で別れたクラスメイトが20歳になって現れて、みんなで盛大に笑ったのを覚えている。

東京から駆けつけてくれた男子が3人いて、彼らは中学生の時に成績優秀でコミュ強でユーモアに溢れた人物たちだった。

うち一人の趣味がスキューバダイビングだと聞いて、「太郎(仮)が!」「スキューバ!」と大爆笑だった。

ほかの人たちは私を含め、なんやかんやで地元にいるので、会おうと思えばいつでも会える距離ではあるんだけど、こういう機会でもないと集まれないのが大人なんだろうと思った。スケジュール調整が難しい。

私は知人のお店を貸切にしてもらった為、手伝いの方に回ってしまって、なかなかみんなとは話せなかった。

それでも、みんなが元気でいた(元気じゃなかったかもしれない人も元気に笑うことができた)空間を過ごせたことが嬉しかった。

 

集まった人の中に、私がずっと好きだったAの友人がいて、(なんなら私が別の人と結婚する直前まで好きだった)「ちえが結婚したって聞いて、Aは絶対ありえないって言ってたよ」と言われた。「へえーなんで」と聞いたら、「ちえは一生俺の事を好きでいると思ってたから信じられない」と言っていたそうだ。

その友人に、「Aは相変わらず頭は悪いの?」と聞いたら「あいつは変わらないよ、ずっと頭悪いよ、今も頭悪いよ」と言った。

それってすごいことだなーと感心してしまった。

 

今日はそんなことを思い出すきっかけがありました。

そのクラス会からも早20年弱、Aが今日も変わらず頭悪いことを願ってしまう。

そして、幸せでいてほしいと思う。

 

ターゲット

いろんなひとがいる

 

そういう当たり前のことを、改めて感じざる得ない時がある。

自分の常識は自分の常識であって、誰にでも適用されるものではない。わかってるつもりでも、やっぱり違うんだなと思う。

けれども、場合によっては確実な摺合せが必要になるので、共通の常識を作らないといけない。共通の常識、認識と言うべきなのかわからないけど、とにかくそれをルールとして定めておかなければ、命の危険に関わる事だってある。

(例えばアレルギー問題もそういうことだと思う)

 

何度もブログページを開いて打ち込んでは消しを繰り返して、ためらった。

書きたいことはたくさんある。奇妙な冒険のページを開いてしまったのかと思うほど「目の前で起きていることの意味が理解できない」ことが連続であった。

使っている言語は同じなのだが、まったく噛み合わず、私がやめてほしいとお願いしたことに「承知しました」と言ったその口で、やめてほしいことをするし言うのだ。

具体的に言うと、「私はあなたに報告する義務があるから報告するが、他言してほしくない(業務的にする必要性もなかったので)のでお願いします」ということを

次の日には他言してほしくなかった人たちに他言しまくっていたのだ。

私がその場にいないことを理由に。

何かにつけて、そのような類のことが頻繁に起きるので、私はその人を信用をしていない。しかしそこが報告の窓口なので、ストレスがやばいです。

私は、その人が私をターゲットにして玩具にしてるのかと思い始めていたのですが、他の人からの情報によると、どうやら頭が悪すぎるということらしいです。(他でもやらかしてるという情報)

でもそんなのって、そんなのって、あんまりだなと思いました。

だったらその人が報告窓口の係りをやめてくれないと、杜王町から出られないじゃない…

 

下り道を駆け上がる

随分と水を吸い込んだコンクリート

今夜の気温の反射で眩しい

自分の息遣いがうるさいくらい響いていて

すれ違う人がスローモーション、そして滲んで見えた

自分の動悸が思考を邪魔して傘も風に奪われそうで

空回りそうになった自分の足に気づいて、一度止まって呼吸した

 

吸って、長く吐いて、吸って、長く吐いて

確実に、また走った

 

もう少しで私は発狂してしまう

私が私には届かないところへ行ってしまう

そんなことになっては会えなくなってしまう

冷静さを必要として、代わりに飲み込んだ感情は、ずっと戻ってこないかもしれない

そんなことはどうでもいい

他人のように自分を振る舞った夜に、信じたこと

まだ生きて行くということ

 

 

 

 

 

わたしがそこにいたら

子供が子供を産んで育てる(育ててるとは言えない、ただ生き抜いている状態)のドラマを見て、あまりにもリアリティがあって、苦しくなった。

子供が一人で子供を育てるには、たくさんの苦難がある。

社会の歪みがその状態を作る。

そういうのを作るのは大体大人の方で、無知で無力でバカな子供が利用される。

それによって起きた問題は、子供の側に全面的にいく。

容赦ない。

地獄かと思った。

本当にバカなのは大人の方で、無責任で、非情だ。

情けなくなる。怒りを感じる。

 

しかし、そんな大人ばかりじゃない。

ただ優しい人もいる。賢く知識を分けてくれる大人もいる。導いてくれる人もいる。

相談できる場所に連れて行ってくれる人もいる。

「それは問題だね」と子供が気づけない問題を気づかせてくれる人もいる。

そしてその問題のある現状を、解決に向けて準備してくれる人もいる。

そういう人に繋がっていくにも、知識が必要で、子供には難しい。

 

わたしがそこにいたら、なにができるだろう。

そういうことを、考えている。

まずは私自身が、私の足元を固める事が、何よりも一番で、しなければ何もできないしてはいけない、と思った。

 

頭の中身を付箋に落とす

頭の中が騒がしくなっているので、書くことで考えてる事や思ってる事を、一回出し切って、整理したいのですが、その書き出すこともできません。

大小様々なものがあって、追いつかないです。それと、正直に書くにはあまりにも自分の私生活の実情すぎて躊躇いがあります。たぶんそれが一番の理由で書き出せないでいます。

この場所でしようとしないで、部屋の中で紙に書いて、とにかく書いて、それらを順番に並べたり、捨てたり、増やしたりしようと思うようになりました。

その時は付箋がとても便利なので、いつも思いついたときにすぐ手に届く場所に置いています。

適当な紙に書くと、無くしてしまうのですが、付箋だと無くさないことに気づいたからです。書いたものは未使用のノートに貼り付けていきます。適当に開いたページに貼り付けるだけなので楽です。

そういえば、エクセルの勉強をしていた時も用意したノートではなくて、同じように付箋に書いてノートに貼っていました。

文章でまとめるより、ひとつひとつの事柄や思いつきなどを付箋に書いて貼っている方が、後で見直す時にとてもよく役立ちました。

貼りつけた付箋の上に、関連のある事を書いた付箋を少しずらして重ねて貼ると、「そのこと(かいてあること、疑問や解決など)」を、私の頭が理解するようになりました。

エクセルの勉強を終える頃、そのノートは最終的に、付箋だらけのページと、それを文章でまとめた、私なりのhow to本になりました。

今でも、わからなくなった時にそれを見ればすぐに思い出せるので、嬉しいです。

 

いつも、幼い頃から、自分が書いたノートは必ず誰かに見られる、という思い込みがあったので、(実際に見られてたこともある)きちんとしなくてはと思うあまり、自分にとっては役に立たない書き方をしたノートになってました。

今は、誰にも見られるわけないと思っているので、自分にとって役に立つノートが作れるようになりました。

しばらくはその方法で、勉強の事ではないけど、私生活の頭の中の整理をしようと思います。

先日、100円ショップで透明で大判の付箋(官製はがきより少し小さいサイズ)を見かけたので、あれは便利そうだなと思ったので、まだ売ってたら買ってみよう。

 

そして今、うわーっとなっていた頭の中の事を、僅かでも出せたので、頭の上の方が軽くなりました。「出す」ってやっぱりすごいんだなぁ!

今度、付箋だらけのノートの「こんなにバラバラに適当に貼ってます状態」をここに出せたらいいな。ああ、でもそこに書いてあることが本当に支離滅裂な感情や私生活の事だからつらい…そして直筆びっくりするぐらい汚い…やめておこう;

身体の不協和を受け入れるのは難しい

けどできる。

ここ数か月、短いスパンで身体の調子が悪い。それを事務的に報告する。

どうしようもないから、諦める。諦めるというのは具体的にただひたすら休むという事。休むということは、複雑な「すべきこと」を放棄し、横たわり温存するということ。悔しい気持ちになるけど、悔しい気持ちに焦点を合わせると、苦しくて悲鳴が体中を駆け巡って破壊してしまいそうになる。破壊するのは物ではなくて、せっかく積み上げた思考のパターンのこと。

こうなったらこうなる、だからこうする、そうすると時間が経てば回復するのを知っている、というパターン。

素直に休んでると言うと、「休んでばかりいないで取り組みなさいよ」と言われると、「わかってる」から「悔しい」という気持ちになる。

しかし私は、どうしたら這い出せるか、頑張って積み重ねてきて知っているのだ。

もう少しで動けるようになる。だから、そっとしておいて欲しいし、今やれ、と言われたくない。後で出来るようになる。今はできないだけで、回復したらできることなんだ。許してほしい。

 

そして思うが、私は「休んでばかりいないで取り組みなさいよ」という人が思うよりも日常生活はぎりぎりできている。今の私にはそれが守りたいラインなんだ。

精神医療の治療は複雑だ。私はきちんと治療を受けられていることに感謝している。

だけど時々、現状の把握が共有できなかった時に起きる、相手から言われたシンプルな言葉に苦しむ。

でもこれも深呼吸で消化する。私の人生は私が生きるしかないのだから。

私がどうしたらいいかわかっているのなら、多少傷つく言葉で苦しんでも、それを「すれ違った会話したなぁ」という認識に切り替える。

私は私のままで、私を回復しなければならない。

時々思う。

私の経済状態を支える相手がいれば、私はこんなに「まとも」を求められなくて済むんだということに。私より変な人はたくさんいる。私より仕事ができない人もたくさんいる。(健常者でも)

社会復帰を前提とした治療は、通院だけでは限界を感じている。

疲れた。

少し、休んで、朗らかな気持ちで日々を過ごせるように、自分を信じようと思う。

この世界にはたくさんの知恵がある。

体調が回復してきたら、そのたくさんの知恵を借りて、イメージを形にしてみようと思う。焦燥感が薄れてきたので、もう少し、もう少しだと、今は耳を塞いで、無音の中でぼーっとする。

 

 

 

 

my backnumber to lock the door on the inside ジュニア辞書で精いっぱい作った後ろと前の文脈です。タイトルはこんなニュアンスで表したかったです。